neutral neutre(neutral)


neutre
neutral 1~60 イントロ
三島由紀夫の割腹の四ヶ月前に産経新聞に寄稿した頻繁に引用される日本の未来。「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」 「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の」までと「富裕な、抜け目がない、或る経済大国」とは位相が違う。ニュートラルに纏められる前半を三島とは逆に肯定的に捉える。ニュートラルが日本の底を古来より形作って来ていて、それこそが(表面ではなくむしろ触媒的に)残れば日本も消えず繁栄さえ可能だろうと考えているのでその辺りの探求を以後に。 (坂口安吾の『堕落論』も墜ちる先はニュートラルに近いのであろうが、それはまた別の機会に)2023/06/13



ニュートラル01
ニュートラルは善きにも悪しきにも幅広く変動し、まるでお化けのように変幻自在に現れ、その要素数は測りきれない多様体として君臨している。
初期の村上春樹の主人公たちの不気味さ、違和感、気色悪さもニュートラルが為せる技だった。快適さだけを追求し「誰でも無い自分」を前面に押し出し、妄想に明け暮れていた主人公達。妄想を生む母体こそニュートラルの特異性なのだ。ニュートラルと無縁に見える欧米人に受けいれられている不思議さも結局潜在的にニュートラルを持っている証しなのだろう。三島由紀夫同様にコイツには絶対に文学賞をやらないという審査員が一人、又は複数存在しているようだ。政治的発言も徒労終わるのだろう、御苦労様でした。やれやれ。
受験や偏差値教育の覚醒したものでない本物の学問的に類ま
れな発想や構想にもニュートラルが関わっており、混沌への道も実はニュートラルが握っているようなのだ。
地方には一生をその土地で暮らすおばさんたちが居り、ニュートラルのまま一生を過ごしたりしている。「誰でも無い自分」だけど周りから教えてくれる特徴で個性は充分に発揮され与えられ、事実個性的でもある。
秋元康がセンター( グループアイドルの頂天)に選ぶのは、デクノボウ、女子ならお人形さんみたいな子たちに決まっている。アイドル、イコール、ニュートラルと分かっていることはいいのであるが、選ばれて何も出来ないその子は、その後病んでしまうという過酷な現実が続いている。教育上この上なく悪しき慣習を止める気配もない。困った変態キモオタオジサンである。
「伊豆の踊り子」で悩みを抱えていた一高生が、アイドル的美少女と出会い再生するストーリー、アイドルには癒やしの力が備わっている。ニュートラルにはそんな力能もあるのだ。
ニュートラルの別名「わび さび」も不完全の、しかも何か新しいものが生まれそうな予感を秘めていて、この魅力は測りしれない。先人の感性には恐れ入るしかない。
直線的思考ではニュートラルは捉えきれず、螺旋の志向、新月の思考、闇夜の徘徊が必要なのかも知れない。
素顔はない、が定番の答えになっている昨今、しかしニュートラルの「誰でも無い自分」が素顔に近いんじゃないのか、いや、禅問答でもあるまいし?でもぼくはその問答が嫌いじゃないです。続けましょう。
この得体の知れない怪物級の多様体ニュートラルとは、日本人の分母でもあるので避けることは御法度、今後も末永く付き合ってゆかねばならないと思っている。沼にハマってしまったのか。わたくし。
10/11/2023





ニュートラル02
アイドルの場合。日本人の原型「両義的多様体」が良く現れてもいる。子供でも大人でもない。大人の中に子供が見えたり、子供に中に大人が潜んでいたり。男子のアイドルでは両性具有。少年と少女が混ざって見えたりする。時期的にはモラトリアムだろう。かつての日本では新入社員も嫁さんもニュートラルなまっさらな「誰でもない人間」が良かった。会社が色を付けてゆく、会社人間に改造してゆくのである。嫁は姑や旦那が「良妻賢母」という仕事以上の役割を与える。共稼ぎの時代ではもうはるか彼方に消えてしまった「良妻賢母」という幻想。カップルが成立しない要因の一つにはなっているだろう。若いカップルの離婚率が高いのは、家庭がニュートラルの時間になってゆき、互いの欲望がぶつかり合い、権力闘争になって仕舞うからだ。
さて秋元康が好きな木偶の坊。人形のように何もできなくて、でも可愛い人気者。ドルオタは徐々に大人になってゆく過程も込みでニュートラルを満喫するのである。キャラではお姉さんキャラが面白い。成熟した大人の魅力を備えていて、時には少女が顔を出しニュートラルを辛うじて保っている。そしておバカお姉さんキャラもいて、分別有りそうで適当なことを無責任に吹聴する。この辺が子供っぽい。でニュートラルが満喫出来るのである。
わたしはアイドルオタク歴が2015年から、8年間、それでも古参ではない。にわか、新参者だと自覚している。
2016年春、卒業センターで乃木坂46の深川麻衣さんが静岡で行った卒業コンサート。アリーナで1万人以下だったが、同じ日、ももいろクローバーZも近くのスタジアムでコンサートを盛大に行っていた。格において大差があった。AKB48ともまだ大差がついていた。今は乃木坂46の動員数は独走状態。神宮球場を満席で4日間ぶち抜いている。既に秋元康を離れSonyのブランド力と戦略で育て上げられた新生乃木坂46。オリジナルメンバーは皆無。3期4期5期でこの盛況だ。世帯交代の難しいアイドルの世界では奇跡に近い出来事だろう。CDの売り上げ以上に動員数が人気の指標になっている昨今。乃木坂46の懸念はむしろ秋元康の動向に変わっている。ボトルネックになりうるのは秋元康だけだ。どう出る秋元康。「僕が見たかった青空」
海外、欧米で日本のアイドルがアニメの影響で浸透しつつもまだ決定的には至らず拒否されている文化だが、ニュートラルという余裕のない人々の許容範囲は当然狭く、息が詰まりそうに見えるが余計なお世話なのだろう。
世界にニュートラルの文化が浸透したならば、世界はもっと穏やかにはなるだろうとは思っている。
10/12/2023 9:45





ニュートラル03
ニュートラルを思い付く根底にはドゥルーズの「差異と反復」で言及されていた「幼生の主体」があった。1995年頃に読んでから沈潜し、凡そ10年後に記憶の底から浮上して来て概念だった。特に東日本大震災において秩序ある行動が取れた日本人に備わっていたのがこの「幼生の主体」だと思った。本家のドゥルーズは学問的に怒涛な発見をしたとき雷光が鳴り響くような、自我は崩壊し死に直面するような体験に遭遇するのだという。そういう時に自我は「幼生の主体」になり、自我が成り立つ以前の人間に本能的に、無意識に退避するのだという。アイデンティティが強固な西洋人と弱い日本人では状況は違っている。「幼生の主体」の常駐が即ちニュートラルだと私は思っている。
「誰でもない自分」は夢を観ていない時の眠り。自室でボ~っとしている時、オレオレ詐欺に引っかかる隙間。大阪のオバチャンは何故引っかからないのか、常日頃から対人的にニュートラルにならない、自我が、自己主張が強いからだろう。
また習慣化された反復動作においてもニュートラルは発揮される。通勤通学時、良く眠れるのがその証拠だろう。困っている外国人を助けるのも自己がニュートラルで居られるからだ。結局業者のオモテナシ以上に一般人の対応が際立って日本を形作っている。人々のニュートラルが観光客にとって日本そのものに感じられるのではないのか。景色を求めて来て、人々のニュートラルに出逢い、感動する。リピーターは知っている。分かっているからこそリピーターになる。安倍元総理の「お、も、て、な、し」は印象的だった。ニュートラルを言っていたかどうかは分からないが、あの笑顔は総理の顔ではなかった。無邪気な子供のようなニュアンスだった。してやったり、コロナの規制が解けて、リピーターが帰って来た。安倍さんの笑顔はいつでもニュートラルを感じさせてくれるのであるが。
お笑いも人をニュートラルにする。何故に笑いを求めるのか、勿論全てではないがニュートラルは大きな要因だろう。日本人は「誰でもない自分」になりたがる故にお笑いを求める。この論理は成立しそうだ。無我夢中で働く。そして美味いものを食べる。この美味も我を忘れさせてくれる。アルコールによる覚醒の麻痺はいうまでもないが、泣き上戸とか、説教おじさんとかもまたニュートラルから出てくるプリミティブな欲望なのだろう。
欧米人はニュートラルがタブー視されているから、ドラッグを使わざるを得ないのだと思う。日本ではニュートラルが野放しだから薬物は蔓延しないだろうと思う。
同性愛ではニュートラルはどうなのか、私の想像力を超えるテーマなので、止めておく。あしからず。
拡散と集中は学問の基本。ここではニュートラルを拡散、洗いざらい集めている。やがて集中出来るのかも解らないが、まあそう、進めてみるしかない。
「何処でもない場所で、誰でもない自分になる」それがポストモダン、ドゥルーズ&ガタリから受け取ったものを自分の言葉にしたものだった。「何処でもない場所」とは何処にでもあるありふれた場所と受け取っていい。ニュートラルはありふれた場所が住処なのだ。
10/12/2023





ニュートラル04
解題。ロラン・バルトの「象徴の帝国」(新潮社 宗左近訳)の「箸」の章の全文を引用してみる。箸だけど日本人論になっているからだ。置いてある箸はニュートラルの状態でギアが入っていない。食べ物によって、その状態によって違うギアに入る。象徴(記号)の帝国とは実に日本文化が意味を喪失したつまりニュートラルであると述べているのだ。ただ彼はそれを私のように哲学とはせず西洋へのカウンター、美学として捉えたに過ぎなかった。でも流石の眼力である。



(p25)
 バンコクの水上市場では、商人の一人一人が静止した小さな独木舟の上に突っ立っている。種子、卵、バナナ、椰子の実、マンゴーの実、ピーマン(その他、名づけようのないもの)などの、ひどくこまごまとした食べものを売っている。商人自身をはじめ、その小舟、その商品、いずれもすべて《小さい》。西洋の食べものは、積み重ねられ、勿体をつけられ、荘厳なまでにふくれあがって、なんらかの威信づけの操作を加えられており、つねに、充満、大きさ、過剰、潤沢、へと向けられている。東洋の食べものは、逆の動きに従っている。極小へ向って溢れでている。胡瓜の行くすえは、結合でもなく密集でもなくて、分断であり、微細へと散逸することである。それはまさに次の
俳句の示すところにほかならない。

切断された胡瓜
その汁が流れている
蜘蛛の足を描いて
(瓜の皮水もくもでに流れけり
                    榎本其角)

 微小なものと食べうるものとの合一が、ここにはある。ものは、小さいからこそ食べられる。だがまた、食べられて人間を養うものだからこそ、ものはその本質、つまり小ささという本質をみたすことができる。東洋の食べものと箸との協和は、機能の面、道具の面だけにとどまりえない。食べものは、箸でつまみとれるように分断される。だが同時に、食べものを小さな断片に分断するためにこそ箸は存在する。分断する運動そのものと分断された形そのもの、これが分断する道具と分断された物質のもつ役割を変えてしまう。
 箸は、食べものを皿から口へと運ぶ以外に、おびただしい機能をもっていて、(単に口へと運ぶだけなら、箸はいちばん不適合である。そのためなら、指とフォークが機能的である)、そのおびただしさこそが、箸本来の機能なのである。箸は、まずはじめにーーその形そのものが明らかに語っているところなのだがーー指示するという機能をもっている。箸は、食べものを指し、その断片を示し、人差指と同じ選択の動作をおこなう。しかし、そうすることによって、同じ一つの皿のなかの食べものだけを、機械的に何度も反覆して嚥み下して喉を通すことをさけて、箸はおのれの選択したものを示しながら(つまり、瞬間のうちにこれを選択し、あれを選択しないという動作を見せながら)、食事という日常性のなかに、秩序ではなく、いわば気まぐれと怠惰とをもちこむのである。こうしたすぐれた智恵の働きのため、食事はもうきまりきったものではなくなる。二本の箸のもうひとつの機能、それは食べものの断片をつまむことである。(もはや西洋のフォークのおこなうような、しっかりと掴まえる動作ではない)《つまむ》という言葉は、しかし、強すぎて挑発的でありすぎる(《つまむ》とは、性悪な娘が男をひっかける、外科医が患部をつまむ、ドレスメーカーのつまみ縫い、いかがわしい人間のつまみ食い、などをあらわす言葉である)。それというのも、食べものを持ちあげたり、運んだりするのにちょうど必要以上の圧迫が、箸によって与えられることはないからである。箸をあやつる動作のなかには、木や漆という箸の材質の柔らかさも手伝って、人が赤ん坊の身体を動かすときのような、配慮のゆきわたった抑制、母性的ななにものか、圧迫ではなくて、力(動作を起こすものという意味での力)、これが存在する。そこにこそ、まったく食べものにふさわしい行動がある。食べるためではなく、食べものを調理するために使われる料理人の長い箸に、そのことは、よく見てとれる。この長い箸は、決して突き刺さない、分断しない、二つに割らない、傷つけない。ただ、取り上げ、裏をかえし、運ぶだけである。思うに箸というものは(三番目の機能として)分離するにあたって、西洋の食卓でのように切断して取りおさえるかわりに、二つに分け、ひきはなし、取りあげるものなのである。箸は、決して食べものを暴行しない。箸は(野菜の場合)、食べものを少しずつほぐす、または(魚、うなぎの場合)、食べものをくずす(この点で、箸はナイフよりも、はるかに自然のままの指に近い)。最後に、四番目の機能として、そしておそらくこれが箸のもついちばん美しい機能であろうが、二本の箸は、食べものを《運ぶ》。あるときは、二本の手のように組みあわされて、ピンセットとしてではなく、支えとして、御飯の断片の底にすべりこみ、断片を支えて、食べる人の唇のところまで持ちあげる。またあるときは、(全東洋一千年来の動作によって)茶碗のなかの食べものの雪を、シャベルのようにはこんで、唇のなかに消えさせる。こういう箸の使いかたのあらゆる点で、箸は西洋のナイフに(そして、猟師の武器そのものであるフォークに)対立する。箸は、切断し、ぐいと掴まえて手足をバラバラにして突きさすという動作を拒否する食器具である(その動作は日本では、台所での調理の準備段階でだけ行われるきわめて局限された動作となるにとどまる。生きたうなぎをお客の目の前で割く料理人は、あらかじめ食べものの犯罪者としてのおもれを浄める儀式をしてからでないと、事にあたらない)。箸という存在があるために、食べものは人々が暴行を加える餌食(たとえば、人々のむさぼりつく肉)ではなくなって、みごとな調和をもって変換された物質となる。箸は食べものをあらかじめ食べやすく按配された小鳥の餌とし、御飯を牛乳の波とする。箸は母性そのもののように倦むことなく、小鳥の嘴の動作へと人をみちびく、わたしたち西洋人の食事の慣習には相もかわらず、槍と刀で武装した狩猟の動作しかないのだが……。
(p28)

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ニュートラル05
今回は外堀から考えてみよう。西洋人のアイデンティティは主体内部、中心にある。御存知の自己同一性である。日本人はどうか、戦後GHQの影響力もあり、教育指針は欧米化しようとしているように見える。が実体はニュートラルがほぼ制覇しているだろうと私は思っている。教師と生徒の攻防は、予想以上に卑劣で病み不登校、ニートを生み出し続けている大きな要因にもなっている。徒労を伴う果て無き闘い。教育システムから売られる喧嘩。
ニュートラルな人間にとっての「自己同一性」はあるのかないのか。私は最初は外部にあると思っていた。小津安二郎の「晩春」で笠智衆が壺を眺めているシーン。自分よりも永い生命。そこに同一性を見出し、大袈裟に云うと帰依する。ニュートラルの姿勢って案外そんなところに根拠を置いているのかも知れないと思っていた。骨董屋の判定士小林秀雄。事実、皇統は言うまでもなく、武家は血統や家だったり、殿に同一性を見出していた。
現代ではどうなのか。ニュートラル、ここではオタクとしよう、ドルオタが求めるのは自分同様のニュートラル、アイドルになる。伊豆の踊り子、一高生は自分よりも確かで強い人、もので再生したのでは無く自分(モラトリアム)と同類の不安定な見習い踊り子、ニュートラルに接して生き返ってゆくのである。ニュートラルは曖昧模糊に見えて実は最強のアイデンティティを持っているのではないかと思えてくる。柔よく剛を制す。剛も、同一性も直線的だ。ニュートラルは螺旋状とか、形無き軟体動物みたいな、風に揺れる柳のような勁さ、災害時に発せられる勁さ。ASUKAが瞠目したように、被災地では圧倒的にAKB48が歓迎された。日本人のアイデンティティはニュートラルにあるに違いないと思わせるくらい圧倒的に。再生する力はニュートラルにあると。蕗の薹もタラの芽もニュートラルに見えてくる時がある。若竹も美味しいし。ラーメンスープにメンマは良く似合う。
注:今日は退院の日、実家には戻らず引っ越す日。環境が整うまで暫し筆を置く所存なれども、このスマホで書けるので書き続けるのかもしれないというモラトリアム。
一生モラトリアムは治らず。
10/13/2023




維摩詰の部屋(ニュートラル6)
舎利弗が驚き嘆いたように維摩詰の部屋のように何も有りません。
勿論これも立派なニュートラルです。何もない部屋。何にでもなる部屋。日本間は優れてニュートラルで多様体だった。夜中の寝室から始まって、朝の食卓。続いては居間。食卓を経て居間。客が来れば客間となる。遊びが高じればプレイルームと化す。夜は寝室に戻る。箸と同様だろう。現代風に言えば多目的ホール。ワンボックスカーの類いだ。
寺山修司が歌った「一粒の向日葵の種をまきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」。「わび さび」の荒れ野、ニュートラルこそが希望だと詠い上げているかのようだ。希望に満ち溢れている青春も、一皮剥けば「わび さび」に近い状態なのではないのか。それはまたニュートラルにおいて肯定される。誰でもなくても充分に充実出来るからだ。匿名掲示板に注がれる情熱(欲望)は半端ではない。自己承認欲求で荒れつつも、充実は溢れているではないか。荒野はそのままでも欠乏ではない。荒野こそ欲望の対象なのだ。誰でもない自分の証明。ニュートラルという掛け替えのない体験。二度とないかもしれない。いや生涯の友であろうか。
ニュートラルは一方では不安、不安定の宝庫。耐え難い怪物でもある。想像力(妄想)が癒やしてくれる。赤毛のアン、ニュートラルを知り尽くし想像力の拠点を築いた。ニュートラルを想像力で突破してゆく生き方、方やニート、引き籠もりの快適さをも提供している。心配ない、快適なのだから。
現代思想、2010年を頂点に世界の哲学者、有力者は一斉に引き籠もりだしたと千葉雅也は纏める。オブジェクト指向プログラミングは自己責任の別名だ。オブジェクトごとに責任が割り振られている。一つのオブジェクトが不具合でもそれを無効にすれば他は普通に動いてくれる。共同責任のない社会。人間であれば引き籠もっている状態。またしても日本人が最先端?だったのか。ニュートラルまでゆく海外の精鋭学者(学者は学説の権化で、主体、同一性を消すことは原理的に難しい)は居ないだろうけど、ニュアンスはもしかしたら掴んでいるのかもしれない。が、世界認識?そんなの関係ねぇ そんなの関係ねぇ
それよりも驚くべきことは海外からの移住者か、日本研究者だったかのつまり日本文化に精通して居る外国出身者のアンケート結果、日本文化の何に一番興味関心があるか、の統計で「落語」が一位だったことだ。複数の自己・多様体の究極の姿。その表現が熊さん、はっつぁん、の登場する落語なのだ。瞬時の変わり身は西洋の一人芝居を大きく引き離しているだろう。多義的多様体でもある落語家。七つの顔を持つ男、多羅尾伴内や遠山の金さんとか、列挙に暇がないが、噺家のそれはギアチェンジが素早すぎ消えていて、ニュートラルが表現と一体化してしまっているか如くなのだ。ニュートラル、名人級の気取らずリラックスしたまま変化出来ることがその証明になっていると思う。
10/15/2023





ニュートラル07
日本を象徴するもの、精神には八百万の神々や、富士山、桜、京都。伝統文化の茶の湯や、花道、俳句、短歌。詩吟、水墨画、日本画、果てはガンダムやドラえもんまで入りそうだ。戦国武将たちも根強く信心されている。
中でも神仏習合や本地垂迹思想が面白いだろう。その節操のなさ、デタラメぶり。掛詞を文芸の修辞と見てはいけない。立派な哲学を表現している。両義性である。物語の水戸黄門、遠山の金さん。怪人20面相。「容疑者Xの献身」(ハーバード大の教授が驚く自己同一性の無さ)。
漫画、アニメの主人公達でも凄まじいほど多く見られる。ウルトラマン、仮面ライダーの変身もの、「見た目は子供、頭脳は大人」の名探偵コナン。ラブコメでしかも本格的な野球漫画の「タッチ」。モビルスーツ自体が変身と考えられるガンダムやエヴァンゲリオン。アイドル歌手が歌で戦う超時空要塞マクロス。男女入れ替わる「君の名は。」。元は人間だった鬼が跋扈する「鬼滅の刃」。最強スナイパー兼モッコリのシティハンター。スパイと敵側の殺し屋が同居して超能力少女を育てる「スパイファミリー」
これらの節操の無さの根源とは。三島由紀夫の未来予想の言説「無機的な、からっぽな、ニュートラルの、中間色の」とほぼ一緒なのではないか。そこに帰ったりを繰り返し歴史は流れて来た。そんな気もします。ニュートラルを人々は全く気づかずに生きている。潜在的には活発に動いていても見えない。三島の予想も表面的には当たっている。デタラメ(混沌)の神様は、一体どんなお姿をしているのだろうか。ゲゲゲの鬼太郎、ビビビのねずみ男、案外、長州力っぽい気もする。
10/15/2023





ニュートラル08
誰もが一度は疑問に思うこと、あんなに天才だった子役が大人になって何故に凡才、下手くその、平凡な脇役に落ちゆくのか。子役でそうでもなかった子の方が活躍している。数が圧倒的に多いからだけど。子役は概ね天然なのだけれど「器用」がキーワードなんだと思う。すっと如才なくこなす者より、不器用の方が伸びると、女大工を主人公にした朝ドラで強調していた。置き屋でも新人舞妓さんは日本舞踊を予め習っていない方がいいのだと。器用貧乏という言葉があるくらい平均点の良い秀才とはこの類いなのではないか。
アイドルの中でも器用な子が各部門、歌ウマや、ダンスパフォーマンス。演技力などで才能を発揮するのだが所詮は「器用」が取り柄で卒業後に大成することは少ない。
ここに来て何を言いたかったか、見失う時もある。
全科目の秀才や八方美人は実は途轍もない危うさを持っている。乃木坂46の久保史緒里は八方美人の典型なのだが、バレンタイン企画で久保史緒里にチョコレートを貰えると思った先輩が殺到し久保困惑と共に信用が失態、その右往左往が失笑をかってバラエティ番組は大成功。久保史緒里は立ち直るのにどれだけ時間がかかったか。今は久保史緒里が3期で最年長組。主要メンバーとして活躍出来ている。乃木坂46はこういうトラブルのフォローが素晴らしく出来る伝統があり、それも久保史緒里にとって救いだったろう。
秀才的な器用貧乏も同じように危険が伴うだろう。器用でも野球のユーティリティプレイヤー位の才能なら文句も出ないが。
結論的に云えば、八方美人や秀才や器用貧乏はニュートラルが極端に不足しているのだと思う。所謂ハンドルの遊びである。
ニュートラルには遊び(緩い)という意味も持っているのだ。
10/16/2023





ニュートラル09
八方美人に似ている「人たらし」という言葉がある。信長の草履を懐に入れて温めていた秀吉。石田三成の秀吉に対する三献茶。直江兼続もそうだったらしい。特に官僚を動かす時の田中角栄は相当な人たらしだったようだ。八方美人はその場しのぎの器用さだけが光っているのだが、人たらしは目的もあり、戦略的だ。ただ人たらしが出来る人物は大物なのである。無名の市井の人であってもキャパは大きいと思う。成功したセールスマンはそれなりの魅力は兼ね備えていたのだろう。
人たらしと言ってもそれが本業ではない。本業の実力も必須。
本業のみでも相当な実績なのだが、人たらしによって更に本業が膨らんでゆく。実力と人たらしの隔たりのある空間、距離。車のギアチェンジで云えば、前進、後退、の次にダンスが来るくらいに唐突だろう。ニュートラルが介在していて、そのニュートラルの距離のスケールの大きさに何故か圧倒されるのだ。
人間の大きさ、とは全てではないがニュートラルの大きさにも集約されるのだろう。
棟梁であった父親 、仕事の厳しさでも名を馳せていたが、近くで見ていると、職方(下職)へは早朝に電話をかけ、他所の現場に行かせない。そこまでは厳しい棟梁であろう、が電話内容は至っては馬鹿丁寧におだて、三顧の礼の如く低姿勢を貫く。親父、ツェー。人たらしでも一流だったそんな感じだ。医者、中小企業の創業者、教師、老舗の大店、に取り入るのが特に上手くお得意様になっていた、本心はそういう人達、上の階層との交流が好きだったようだ。
親子であるより仕事で出逢いたかった、と思っていた時もあった。親子でも充分楽しかったし、色々教えてくた。
植木等さんが好きだったのだが、日本一のゴマすり男、植木屋は上の者にしかゴマを擦らない。でもその擦り方は超一流で見
事。見習うところがあったのかもしれない。
10/17/2023





ニュートラル10
中学や高校生の時、徒然草など担当を割り当ててそれぞれが発表するわけですけど、徒然に書いたことが後の世の学生に苦痛を与えていて、トンデモナイやつだと思っていた。小林秀雄は褒めちぎっていたが、高名の木登り、など、あやしき下臈なれど、という上から目線が特に気になった。従五位下左兵衛佐まで出世したとされているが下級であったことには変わりはない。何かこう度量の小ささは感じていた。こういう発想で授業が行われていれば少しは学校も退屈から逃れられたのかもしれない。出家者なら尚のこと下臈などと。
武家では度量が大きく見える豪傑が好みなのだが、歴史では逆に作戦その他の貧弱さが出てしまい、策士の視野、度量の大きさに負けて仕舞うのは皮肉なのだろうか……
諸葛孔明、人類最大級の軍師であることに間違いはないだろう。兵士の数が常に半分くらいでは策に頼るしか手は無かったという状況が頭脳を最大限に発揮させたとも云える。
現在STU48に子孫かも知れない中2最年少の諸葛望愛(もろくずのあ)が奇門遁甲や三顧の礼という策を駆使してがんばっている。三國志で関羽の人間性が際だって好きな分けは父親を連想するからだが、日本の戦国時代に生まれていれば関羽のような武将になっていたのではと思わせてくれるところが嬉しいのだ。このような想像力の発揮は本来の想像の楽しみと言えるのだろう。
こういう私事を書き連ねること、随分自分も緩んで衰弱したな、とは感じている。度量もニュートラルも縮小されてゆく。どうすりゃいいんだ。これから……
昨今は岸田総理の度量の無さが際だっているのだが、目立って度量の大きさを実現している日本人の若者が現れた。大谷翔平である。日本人が最も取れないだろうと言われてきたメジャーリーグでのホームラン王を実現した。日本始まって以来の日本人らしさ、大きさも表現しれていると言っていいほどだ。スポーツの狭い話では無いかのと思いきや、これほど世界を席巻できる可能性を秘めた分野もない。見た目だけで納得させるに充分だらかである。解説も言葉も要らない。既にアメリカではベーブ・ルースを超える伝説になってしまっている。百年後も語りつづけられるのだ。二刀流は盾と矛、投打の間の空間、距離、意味的な転倒、隔たりは無限に近いほど隔たっている。数多の現役OBの著名選手たちが揃って想像も出来ないことだと言っている。この度量の大きさを埋めているはニュートラルに違いない。物凄い距離のニュートラルを行き来してギアチェンジしているのである。光速超えてる?あるいは。他に比類する例を挙げられるのかどうか……
10/18/2023





ニュートラル11
ニュートラルが10を重ねた。奇跡ですか,,、?
折角ですので1980年代にワープしつつ、面白可笑しく、いや、こっちの「可怪しく」ですが、紐解いてみよう……。
「差異」から始まったポストモダン。その「差異」も初手から日本人では考えられぬような厳しさがあった。トヨタのクラウンとカローラは乗用車という同一性に裏打ちされていてバリエーションに過ぎない。少なくともクラウンと農機具のトラクターなら本性上の差異が有りそう、という厳密さだ。それでも動力を持ち前進するもので同一性として裏打ちされて仕舞う運命が待っているのかもしれない。
フォンはフォン・ド・ボー(仔牛の出汁)の出汁の方で、『差異と反復』では背景という意味で使われていた。そこに浮いているものたちは雑多で他のものとも、背景とも、一切関係がなく存在しているというイメージ。ミッシェル・フーコーで云えば「混在郷」(博物学から出て来た、記号も動物も一緒に括ること)となる。ちょっと無理か。m(_ _)m。
人間関係で云えば私と君は同じ背景も同じ要素も何も無いよ、という具合で、他人との決定的な本性上の「差異」にしか自己の存在理由が見いだせないと言っても良い。
常に他者との本性上の差異を探し求め、彷徨っているフランス人。そんなフランス人って本当に実在するの? これは抽象のお話しです。漫画ようにデフォルメされております。真似される屈辱も人一倍強いのも当然予想されるでしょう。明治期の日本人が西洋の猿真似をしていたというフランスの風刺画は有名です。
ドゥルーズの失敗はかように「差異」を強調するほどに自己同一性が逆に強まってしまったこと。アンチ・オイディプスで一気に壊そうで挫折し、生成変化(別物になること。例えば動物に、強度に)でも今やPCゲーム界隈に到底敵わない、が現状でしょう。
フォン(背景)がニュートラル(ギアチェンジの媒介)とは決定的に違うという証しを書いて来ました。フォンとニュートラルには本性上の「差異」があります。
そしてアンリ・ベルクソンが指摘する時間(純粋持続)の空間化の徹底的な攻撃。例えば、時計の文字盤。歴史の年表(私自身はこそにこそ人間の素晴らしい智恵が見え、空間化は好きなレトリックなのですが……)。時間。空間。は哲学の基礎。ベルクソンを多分に継いでいるドゥルーズも時間に敏感で「差異」、他との違いも空間より変化の追求という時間の導入にウェイトが置かれていた。変身、生成変化である。変身、生成変化は瞬時に起こりニュートラルが入る隙は無い。平均的フランス人や、フランス人哲学者において、大谷翔平のような日本人特有の空間的と云えるニュートラルなど想像も付かない代物であろう、と。原理、原則的に二刀流は日本人の独占?、今後も独走してゆくに違いないと思っている。
10/20/2023





ニュートラル12
「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」(小倉百人一首 九番 小野小町)
後半77が掛詞になっている。わが身世にふる。「古る」と雨が降るとの。そして「眺め」と長雨との。
同音異義語の、この隔たりの間にはニュートラルが漂っていると言えるのだろうか?
つまり正述心緒と寄物陳思との間に。ここで取り上げている時点で結果は出ているようなもんでしょう?。いや、まあ、こういう問題意識は学校では到底やるはず無いんしでしょ。相変わらずですから。
無関係に見えて関係が深いとも取れる関わり。触媒の役割は大きい。雨が降るから古くなる。古くなった一因は雨だ。長雨だから籠もって眺めるしかない。掛詞と云えど深い関係で結ばれているようにも取れる不思議さ。単なるテクニックだけではこれ程の歌は詠えない。ここにこそ歌詠みの、歌人の、歌道の真髄、神髄があるのだろう。混沌の制御とも違う、偶然の関わり、や必然的一致と言えるものなのだろうか。ニュートラルの力能は無限であると思っていても、こういう場面では不意打ちを喰らうのだ。
現代に飛ぼう。現代俳句の殆どは(添削で作られるのではなく)、二句一章。取り合わせ。又は二物衝撃で成り立っている。掛詞さえ捨ててしまって、無関係な2つを取り合せる。多くは季語と何か……
「降る雪や 明治は遠くなりにけり」 中村草田男
昭和6年、学生時代に詠んだ人間探求派の代表作。
「降る雪」と明治時代を並べてみると不思議な共感、共鳴が浮かび上がってくるのだ。足し算ではなく掛け算の効果が得られる。この増幅感。それも恐らくニュートラルの働きなのだろうと思っている。いや、待ちなさい。こういう関係性は「縁」と書き記した方がいいかもしれない。ニュートラルの限界、境界線をこの「縁」に置いても不思議ではありませんので。
縁の距離感は近場からほぼ無限大まで幅広い。現代哲学用語では「横断的結合」や「リゾーム」(根茎)なのだろうけれど、意外に流行になり騒がれた割には概念の範囲や浸透性は貧弱だと思ってしまう。仏道や平安以前から蓄積されて来た言葉にはそれなりの力能と風格がある。20世紀最大級の知性を持ってしてもここまでなのか、、、、。ドゥルーズが依然として現役で研究、探求され続けられている現代。20世紀は遠くに成れず 彷徨う。
と言いつつも我が「ニュートラル」などは今のところ「法螺話
」と同義であると自覚している。新種を提供するとはそういうことでもあるので、まあ僻んでいる訳ではありません。この感じを味わい尽くせるのも特別なこと、いい体験だと思っているし、夢は一貫して膨らんでいるのだ、、、。
10/21/2023





ニュートラル13
20世紀のフランス事情などを。千葉雅也によれば思想界で極端に、精神分析と記号論が席巻していたのだという。フランスでは精神分析はポピュラーでシュレーバー控訴議長(狼男)だけでなく一般人も普通に診療を受けに行くようなのだ。日本の精神風土とは本性上の差異が、隔たりがあるといってよいだろう。元々フロイドの後継者ラカンに関心はなかった。ファルス、ファルス、ファルスのオンパレード。フランス人は助平の集まりかって位にフロイドは継承され続けられ性に、ファルスに支配された絶対王国、読む以前にウンザリしてしまった。オイディプス・コンプレックスもだけど。
それから、極端に哲学がソシュールから始まる記号論と癒着してしまっていたのである。言語論が強く、哲学をしているのか、言語を論じているのか、見分けるのが困難になるくらいだった。『象徴の帝国』(記号の国)をバルトが書いた事情もここら辺からなのだった。シニフィアン(象徴)、シニフィエ(意味)。両者の結びつきは恣意的。山を「タコ」と呼んでも良かった。合理性は無い。そう、合理主義の国、議論の国
、フランスでは大事件だったのだろう。「不立文字」がかろうじてでも通用する我が国にあって、記号論の重み自体に疑問を持っていても不思議ではない。言霊も生きてるんで。
西洋人の考えを学び日本人と比べ両者の特質を明らかにする、なら解るのだが、盲目的に西洋を崇拝している信者ばかりが哲学者を名乗り跋扈している状況が残念ながら未だに日本の現状、日本の哲学界隈なのだ。日本人学者に与えられる勲章も有り体に云えば日本への紹介に対してだろう。日本人学者は相手にされていないエピソードは千葉雅也によって赤裸々に書かれていた。フランス人学者全員サヨク。日本の方はというとサヨク以外もいるのだと彼は言う。有名大学サヨク、然程でも無い大学に保守の著名な学者がいたりする。偏差値を上げるほどサヨクの教員に当たる確率があがる。偏差値の弊害はホントはこの辺りが問題なのだろう。
なんとなくでよいのだが、フランス共和国やサヨクの世界にはニュートラルが入り込む余地など考えられぬと分かれば。
10/23/2023




ニュートラル14
日本においてはその存在を証明し、海外(欧米)においてはその不在証明をつづる。王道の方法だろう。日本独自の特異性を主張する、他に別のやり方はあるのだろうか。
さて日本人哲学者の役割はというと、、、イジるに限るでしょう。イジり甲斐のある哲学者はそれなりの芸をお持ちのようで、有用性がかろうじて残っております。
「僕はフランス現代思想の弁護士になったというわけか」
千葉雅也の素直で良いところはこんな告白を度々思わず書いてしまうことだろう。小説でゲイのハッテン場のくだりはスルーせざるを得ないが、この辺も彼の「赤裸々」という生き方がそうさせるのであろう。『動きすぎてはいけない』は彼の主著であり学位論文。しかし赤裸々に、担当教授(マラブー女氏)にあなたは何が言いたいの、と罵倒されたいう告白もそのまま綴っている、生成変化について、折り合いを付けて程々にしろ、程々にすべし、としか内容的には言っていないと考えてよい。仏教では中間派があるがそれとも違う。ドゥルーズが(純粋持続)のベルクソン以前にイギリスの経験論に傾倒していたところに目を付け起点としている。あなたの直の考えが聞きたいのに何んでドゥルーズの初期に裏打ちさせるの、男らしくない。この辺が、担当教員としてはイミフなのかもしれない。ドゥルーズの若気を掘り返して意味があるのか読んでいて分かりにくいのであるが経験論は日本人の感性にはフィットする。
それはともかく「折り合いをつける」はあの身長182センチの蓮實重彦の口癖だったのではないか。内実は蓮實重彦の弁護士なのかもしれない。蓮實重彦は確かフランス現代思想の紹介で勲章を授与されたお方、辻褄は合うのではないか。そしてゲームでの天敵、ゲーマーの生成変化も程々にしろよ、といいたいのかもしれない。
千葉雅也という一人の哲学者、小説家を見て来ると、フランス現代思想は風前の灯火、故に弁護士が必要なのだろう。まあ20年余りドゥルーズを史上最大の哲学者だと思って疑わなかったこの私でさえこの有り様、この下落はとどまるところ知らず、か。
10/24/2023





ニュートラル15
「なぜ「日本」が欲望されるのか
マンガ・アニメ・ゲーム・映画・アート……。
日本的ポップカルチャーの核心に迫る白熱の議論!

本書の元となったのは、2010年3月に東京工業大学世界文明センターの主催で行われ、大きな反響を呼んだ国際シンポジウムです。
その発表と討論を、批評家東浩紀氏の編により再構成しました。」『日本的想像力の未来 クールジャパノロジーの可能性』NHK出版。
で察しがついてしまうのだろう。東浩紀と宮台真司が仕組んでNHKがそのイデオロギー(欲望)を満たそうとした内容と言ったら言い過ぎだろうか、面白いのは、両者はオタク文化を世界の潮流として捉え、日本というローカル性を否定、世界潮流の最先端を日本が走っていてオタクを自らの思惑の道具に使っていることだった。しかもオタク文化を解明する自分らの分析(思想)でもって世界の思想界を席巻しようと野心を剥き出しにしてもいたのであった(その逞しさを笑ってはいけない、見習っても良い程に見事なのだった)。オタク文化は人間関係を分断し、人間関係を希薄化する装置なのだと。オブジェクト指向とピッタリの、偶然に?
その後のオタク文化の歴史が彼らの思惑を見事に撃ち破り「会いに行けるアイドル」握手アイドルのAKB48に因ってオタクも密で濃厚な人間関係を欲望していたのだと判明してしまったのだった。それからはオタク、イコール、ドルオタ(アイドルオタク)が常識として広まってしまった。秋元康を尊敬している分けではないが、痛快というか、喝采してもいいんじゃないか。日本の、サブカル分析の2大巨頭?とNHKクールジャパンの沈没を。メディア戦略も経済効果も露出も充分過ぎるほど、有無を言わせぬ爆発力を持ってして彼らの野望と杜撰んな分析を暴く結果にもなっていったのだった。
AKB48から覇権を引き継いだ乃木坂46の未だ衰えぬ勢い、神宮球場4日間を満杯にしたアイドルたちを、未成熟、ニュートラルの権化を!
「未成熟」まで迫っていたように受け取れる本書の紹介文だったが、ニュートラルの観点が無いので上辺を擦った印象で終了。ご苦労様でした。
10/24/2023





ニュートラル16
「差異から始まる哲学」と「ニュートラル」。
ニュートラルはギアチェンジで分かるようにローからセカンド、サード、もしくはバックへとそれらの隔たり(差異)を超える媒体の役割であろう。つまりそれは差異を横断する役割を担っている。差異とは実体ではなくAとBの間にある空(間)。ニュートラルもローやセカンドの間にある。蛇足だがAとAとの間には差異はないことになっている(厳密には「と」や空間がある)。差異とニュートラルとは確かに似ている。クロスしているところもあるだろう。もしかしたら「ニュートラル」は「差異」の哲学に回収されて仕舞うのではないか?その可能性は?
『アンチ・オイディプス』の冒頭に出てくる「欲望する生産」(多様体)の特徴でもある「横断的結合」「登録の離接」「消費の連接」
カット野菜などはそれぞれの種類の野菜の全国各地を横断する産地が記されている。サラダや炒め物、煮物にするにしても料理とは生産を説明する例題として解りやすい。「離接」には特別な意味があるらしいがここでは素直に産地のインデックスとしておこう。「消費の連接」は食べたときに身体が強度的に反応するもので、ほっぺたが落ちる。漫画「美味しんぼ」では電気が点く状態。鳥肌が立つような状態を指す。身体の強度地帯を連続して走る感覚。なかなか無い体験だがこの時の料理は触発強度と呼ばれ、身体に内包されて(睡って)いた強度を呼び覚ます。本来は分割することが出来無い強度を無理に分割すると性質が変化する。差異が生まれる。卵の細胞分裂。卵=強度という環境だからこそ遺伝子情報が作動すると考えたことが差異哲学の出発点であったと言っても良い。プログラムがPCという環境でしか作動しないのと同様である。ゲノムの第一人者中村桂子さんがTV番組で『差異と反復』を読んでいると宣言したときには驚いた。個体化における強度の役割は科学者にまで浸透していたことになる(現在その認知度がどの程度なのかは不明)。
この辺の差異の出発点の説明で「差異」がニュートラルとは別のものであるとわかってしまうだろう。ニュートラルは分割などの動的な動きとは裏腹に静的だ。どちらかというと自分は何もしなくて何かをさせる方だろう。しかし無くてはならない媒体。差異を超える、超えさせる媒体とは実はかなり強烈なのだが……。
AとBとの間には差異だけでなくニュートラルも存在する。差異は絶対ではない。
10/27/2023
今、ノートPCしか無いために小さな画像しかレンダリングできない。雰囲気だけでも。





ニュートラル17
特に朝の時間、日テレのお天気プログラムでお馴染みの羽田空港からのライブ映像を観ている(羽田、何と飛行場に最適化された地名だろう)。何回観ても離着陸には感動を覚える。お祭りとは違った活気と静寂とがバランスを良く配合されている。停まっているANAの3機の手前に小さなワンボックスカーが10台、8台と整列していて一体何の車なのか推理を楽しんでいたりもする。
Youtube の海外からのツーリストや移住者の体験レポートを観ていると最初の日本。日本へのファーストインプレッションでの役割の大きさに改めて驚かされる。空港のインフラが国の骨格も品格も如実に現してしまうからだ。しかも日本人なら当たり前と思っている空港での出来事や対処が世界では当たり前ではなく、日本のインフラ並びに日本人の対応は世界一、世界一の先進国と言ってくれるので気持ちも良くなる。空港と地下鉄が連結されているのもその一例であるが(正確には地下鉄ではなく成田空港駅が地下にあるのでそう表現されている)駅には旅行者利用可のクリニックも2箇所設置されている。
地下鉄、鉄道、新幹線、乗り物その時間の正確さは日本人でも称賛に値することだろう。何故そうなったのだろうか。憶測に過ぎないのだが、毎日正確に運行されていればいる程、余裕というか、ホッと出来ると言うか、リラックスしていられる時間は増えるだろうと思われる。反対に遅延対策に追われれば追われるほど緊張感は続く(海外のある地域では初手から緊張感がないと言えなくもないが……言い過ぎか……m(_ _)m)。
日本人は常に緊張しているから列車が正確に動いているのではなく、正確に動けばあらぬ緊張から開放されるから常に全力
でなくメリハリを上手く使って要所を締めて運行し、習慣化によって更に力を節約、という循環システムを作ったのではないかと思ってしまった次第。ATC、ATS(自動停止システム)の活用も大きいし、決して緩んではいないことは遅れが殆ど起こらないことでも理解されるだろう。
電車内でも眠れる、夜も出歩ける。家でのように外、公共の場でも弛緩、リラックスして生活できるように作り上げてきた日本。一朝一短では出来ない。それ故に祖国を捨て日本に居住する外国人が増えているらしいが、日本、日本人の良さを十に理解してくれていれば、というところか。
また外国人は日本の修理、修復の技術の高さ、そして驚異的な速さも絶賛する。割れ茶碗を繋げ、味のある逸品に仕上げ、モノを大切に使って来た伝統はまだ生きているようだ。資源の乏しさから生まれた智恵を活かしている。医学にもその伝統は生きていて、失踪していたシャロン・ストーンは大阪での闘病生活で復調し、養女が中国籍だったので中国で整形手術を受け失敗したメグ・ライアンは日本に来て、筋肉の麻痺やほぼ失明状態からこれも光明を見出している。建築でも新築より修理、増改築の方が難しく、腕の見せ所であるのだが、最先端の医学でも職人気質や任侠心は生きているようだ。
10/29/2023





ニュートラル18
ニュートラルの見本のような、手本のようなアイドルを紹介し、理解の足しにしてみよう。
まだ現役で卒業間近(11月3日卒業コンサート)の瀧野由美子(STU48)。キャッチフレーズ「ゆみりん、エネルギーチャージ完了」。STU48発足から連続でセンターを任されていた。秋元康に気に入られていたことは言うまでも無い。当時は広島のエリザベト音大の学生さんでもあって(後に中退、別の女子大学を受験し再び学生生活を送っている)、サックスの実力があり、番組の中でスカパラの谷中さんとも共演し、シロウトの恥ずかしいレベルではないことを証明もしている。緊張感を見せない、天然、自然体で常にい続けられる、これもまた才能なのだろう。新幹線マニアで詳しく、その方面の番組に多数出演している。太田プロの子会社とは契約を解除、学業に専念するのか、移籍するのか、、。
もう一人は元乃木坂46の西野七瀬。コロナ禍以前の握手会が盛んだった頃。一人最低のノルマ1万5千枚握手券でこなす風習があった。40名で60万枚。人気メンバーはすし詰めにして2万5千くらいは握手していたと推定されている。人気メンバーにオタクは殺到するのであり、抽選になる。西野七瀬には65万の応募(一人で複数の応募が可能)があるまで人気が沸騰し、発足当時は関心外だった秋元康も驚愕、その流れに乗り、ここにオタクと秋元康の初めての産学共同?が成立。乃木坂46の人気が爆発したのは西野七瀬の存在が大きかったし、いつの間にかライバルのAKB48をも瞬時に抜き去ってしまった。彼女の初期、上昇指向は強かったにもかかわらず、積極性がなく、喋らない、喋れない、木偶の坊タイプだった。スタッフが策をこうじて、番組のコーナーで西野の喋りやすそうな得意分野をずっとやらせ続けた。結果。絵(上手い。どいやさん、というキャラを売出してもいる)、太った鳩好き、爬虫類好き、関西弁を可愛らしく喋れる。凄まじいくらいに前面に押し出し続けた。西野もそれに応えられるようになり、ただのニュートラルから一歩も二歩も抜け出していった。ライブ・パフォーマンスでは素早い動きで牽引するまでになった。ニュートラルは重要ではあるが安住の地ではないし、そこに留まっては宝の持ち腐れ。媒体として活用し、眠っている才能を引き出せなければ勿体ないし、人生が詰まらなくなる。私はTV、特に連ドラは観ていないのであるけれど風の便りに西野は更に飛躍し若手女優として活躍している。ニュートラルそのものの表現から、ニュートラルを活用し才能を開花させ、アイドルから女優へ転身。この夏、山田裕貴(2011 年の、海賊戦隊ゴーカイジャー)との交際宣言。オタクの反応は好意的で「山田なら仕方ない」バランスも何となく取れていると思う。山田は爬虫類っぽい。
千葉雅也の「動きすぎてはいけない」に見倣って云えば「そこに留まり続けてもいけない」だろう。ニュートラルの権化だった西野七瀬を観てればよく解ってくる。ニュートラルは意識の前面にある時よりも潜在的に働いている方がいいのだろう。奥ゆかしさ、謙虚さ、まさに日本的ではないか。
10/30/2023
(10/31 3:34編集)





ニュートラル19
「強度になること、動物になるこ、知覚しえぬものになること……」(『千のプラトー』第10章の表題。ドゥルーズ=ガタリ 河出書房新社)
10章の小見出しには、女性への生成変化、子供への生成変化、動物への生成変化、分子状への生成変化、と連なっている。千葉雅也の本の脚注の中で名のある学者たちが「生成変化」は日本古来の中にもありそうだ、と示唆だけで終わらせる場面の描写があったと記憶している。何を躊躇しているのか、不能か?無能か?両方か?
日本の哲学者の何が一番ダメであるかの喩えがこれである。日本については何も見いだせない、一歩も踏み出さない。嫁が五月蝿い小姑の顔色を伺っているようで気色が悪くなってくる。小姑など何処にもいないのに関わらず、フランスの権威に忖度し日本の良さを平気で無視する。
譬えば「強度になる」。温度で云うなら風呂の習慣で日本人は毎日のように「温度(強度)になる」ことをしている、してきた。ドゥルーズ=ガタリに言われるずっと以前からそうしている。日本の哲学者は見て見ぬふりか、そこをスルー。「日本の風呂は生成変化かどうか」というテーマで学会で話し合ったっていう情報が私に届いたことはない。単に私の情弱をさらけ出したに過ぎないのなら日本の学会も見込みがあり?それはそれで目出度いことだろう。ないんなら、どんな球でも空振りするバッターの如き者たちの集合が日本の学者集団になる。「生成変化」「生成変化」と口では言うが古い体質のアカデミズムの「生成変化」は永久にやっては来ないのだろう。ニューアカデミズムも名前だけで終わった。
室生犀星の詩にそれに似たものがあった。「永遠にやってこない女性」彼は後に妻帯した。こういう齟齬は洒落ていて好感さえ感じるのであるが……
「女性への生成変化」歌舞伎の女形はどうなのか?
「動物になること」パカラッ パカラッ。江戸家猫八はどうなのか?
「強度になること」ジェットコースター(速度)はどうなの?
「知覚しえぬものになること……」マイク・トラウトが空振りした大谷翔平のスライダーはどうなの?
「分子状への生成変化」
コロナはどうなの?
放射性物質はどうなの?
11/01/2023





ニュートラル20
オタクの心情について一つの側面に過ぎないが綴ってみよう。
秋元康の功罪でオタクの質を変えたのは総選挙と題した推しメンの地位を押し上げる為の争い、この制度からドルオタが互いに分断され決定的に張り合うようになった。同じ推しメン同士の団結は生誕祭の準備、選挙の作戦(新人は中間発表を重視とか……)とあることはあるのであるが、掲示板を見る限り張り合いは続いている。近年は太オタ(太客)と呼ばれるCDを大量買いするリッチな層が出現し幅を効かせている。ドルオタの平均年齢があがったからだ。リアルな配信Showroomのアンケート機能で統計を取ると殆どのメンバーが50代がトップに来る。TV番組の代替えとして観ている層もありだが、中高年の財力は凄まじい。旧ツイッターで千枚同じCDを積んでいたお医者さんを見かけたことがあった。およそ100万円。Showroomは投げ銭に似たシステムがあり、1万の東京タワー(現在はクマタワー。10万も出現している)。AKB48のメンバーへの実入りは僅か800円。この制度が始まって通称田口建設なる人物がタワーを凄まじい勢いで投げ続け、半年で800を超えた。彼の実像は40手前の独身工員で一部上場の大企業であったが、その後破産したという話だった。破産といっても金策が不能というか預金高が乏しくなっただけなのだろうが。
何故そこまでのめり込むのだろうか?
すべてのオタクに当て嵌まる考えとは違うだろうが自分の意見を述べてみる。それは思い出が関わっているのだろうと思っている。自分自身の記憶は動物的な本能によってネガティブなバイアスがかかり、生存に必要な失敗で満たされてしまう。失敗を繰り返さないことが生存の絶対条件だから……仕方がない。対して推しメンの思い出は楽しいが勝る。自身の生存と無関係の記憶とはそういうものなのだろう。
大量の投げ銭は生存から見れば失敗でも推しメンの喜ぶ姿は楽しい記憶となり消えない。
自分の現在の推しメンはFA間近の大谷翔平選手なのであるが、チームの弱さには誰もが閉口している。呆れている。良き思い出、楽しい記憶の為には強豪チームへの移籍、そこでのポストシーズンの活躍は必須なのだろう。
思い出、実は極端に未来志向だった自分にとっては久しく要らぬものだった。が、アイドルって殆どのメンバーはその後、日の目を見無い。卒業と共にジ・エンド。アイドルだけが際立って思い出だけが残る芸能人(有名人)なのだ。しかもニュートラルで終わって仕舞う。例えば安倍律子(第12回レコード大賞新人賞)より松本伊代の方が記憶に残っている。それは不思議ではなくニュートラルはある種の強烈な記憶に関する力能を持ってしまっているからだ。そんな影響、事情もあって……。
11/01/2023





ニュートラル21
その期間は数日から数十年とマチマチだが後から気付くことがある。非常に重要で大切なことから他愛もないことまで様々だろう。
わたせせぞう(漫画家、イラストレーター)はそんな一人。卓越した色使いと1970年代への固執。当時の車や音楽への造詣の深さやこだわり。と十年以上前から注目していた。iPadを使うようになり電子書籍で漫画も読むようになった。代表作『ハートカクテル』は週刊誌連載で一話が5ページ程、ストーリーも短いという制約もあり別れの場面をメインにした1話読み切りがほとんどで、その切なさが余韻として響いていた。
絵師が描く可愛い系の女の子は皆同じに見えるが、それとも違う主人公たちが登場する。やはり没個性なのだが「何処にでも居る、誰でもない男女」とでも形容しようか。
特徴線(個性)を省略した抽象線が勝っている。従って一話完結であっても連作に近い印象を与える。同じような主人公が登場しては去ってゆく。没個性=ニュートラルと言い換えた方が分かりやすいかも知れない。2024年卓上カレンダーが手元に届きそんな事を思った次第。
恋愛映画やドラマは極力観ないようにしてきた。嘘っぽいし、主役がとにかく(予定調和)モテ過ぎるのだ。幼馴染みとは一番の御法度だと思っている。肝腎の出逢いが無いに等しい。恋愛感情はゴールインしてもやがては消滅する運命。だからその瞬間を楽しめという考えも認めるけれど自分はムダか?と思ってしまうことが多かった。
が、わたせせいぞうを知り、その別れの美学を見せつけられてこのような出逢い別れならしてもいいと正直思うになった。ニュートラルとは無関係に。がしかし成就しない未完成とはニュートラルかもしれないとも思えるのだ。未完のアイドル同様に記憶に強烈に残るのではないか。例えショートショートであっても。
11/4/2023





ニュートラル22
パリ大学で千葉雅也の担当教員だったマラブーさんは可塑性をテーマにしているのだという。豆腐に例えられる脳。事故その他、脳の損傷によっても人格が変わる。それも生成変化ではないのか……という。外傷によっても生成変化?は生まれてしま
うし、アルツハイマーもそうだがニッチ過ぎるテーマではないか。系統としてヘーゲルのメインではない(些末な?)記述から始めたのだそうだが、ここにも拘りがあり、ヨーロッパは内部で完結しようという意図が見て取れる。有り体に云えば権威付けである。間違っても日本の外部の風習からヒントを得てもそれは云わないのであろう。レヴィ・ストロースやロラン・バルト(哲学者というよりも批評家)は立場もあるが正直だ。マラブーさんは例え移民(アルジェリア出身)あってもユーラシア大陸の東の端とは格や事情が違うらしい(憶測過ぎるか)。ジャック・デリダもアルジェリアだった……。其の後イギリスの大学に移った。現代思想の担い手はフランス、イギリス、アメリカと拡散してしまっているので不思議ではないが。
それはそれで兎も角として「バギ」(少年チャンピオン)という格闘家がバトルを繰り広げる漫画・アニメは脳しんとうの場面が多発する描き方をしている。「美味しんぼ」と同様に父(範馬勇次郎)子(範馬刃牙)の対決がメインのストーリーで、その脳しんとう自体まで計算し尽くして闘っているところがその特異性だ。回復時間、あるいはその揺れに合わせての闘い方や逃れ方。身のかわし方がありダメージも計算されている。日本のアイドルには名指で嫌がられているが、海外での人気は日本を凌ぐ。見た目が分かりやすいからだろう。
実は直感で可塑性自体ニュートラルに近い概念だと思った。のっぺりしているところ。スライムのように形は変幻自在。定義出来にくい故に「多様体」としてしか定義出来ない。「転生したらスライムだった件」スライムが日本で殊に流行っている現象だったら、スライムに惹かれるということは案外そういうことなのかもしれない。1991年の液体金属の「ターミネーター2」。日本のホラー映画1958年の変身人間シリーズの「美女と液体人間」。「猫は固体かつ液体なのか?」(フランスの研究者によって2017年にイグ・ノーベル賞)。体型、生活習慣含めネコほどニュートラルを体現している動物はないだろう。
11/6/2023





ニュートラル23
前にもサラッと触れたが「生成変化」の具体例は殆ど書かれてない。「動物になること」で形態模写でなるのではなくリズムでと記憶している。「パカラッ。パカラッ。」を繰り返せばあるいは生成変化は生まれるかも知れない。何に変身すれば良いのかの具体例も書かれていないに等しい。呪文?、そういうところも宗教と言われてしまう所以だろう。そして、手軽に変身出来るTV、PCゲーム隆盛の時代に生成変化の魅力が沈下し続けているのも致し方ないことだろう。
「多様体」については具体例がいくつも出てくる(根茎、強度、狼の群れetc)が、肝腎の人間「多様体」の具体例がこれまた無いに等しい。そこを補おうという研究者も居ないに等しい。それを人は現象のない「形而上学」と呼ぶかも知れない。「生成変化」という概念、リアル感を前面に押し出していながら理論が先行し続ける。但し人の心を捉え惑わせる、生涯を捧げるに相応しいとも思わせる魔力と魅力を兼ね備えている。未だに第一線で研究され、引用され続けている。「生成変化」を乗り越える哲学が現れないことも一因だろうが。
此処での「ニュートラル」はドゥルーズ=ガタリで具体例の多い「多様体」の一つに数えられるだろう。話は急転するが「出る杭は打たれる」日本人の特質だとよく言われてきた。ニュートラルが関与してそうなっているのか、別の要素でそうなっているのか、線引きは難しい。
大谷翔平を観ていると二刀流自体「出る杭」なのは明らかだった。実質誰もやっていない、成功していない野球選手のスタイル、反対意見が多かったのも当然だったかも知れない。。それを跳ね返す力はニュートラルから出ていたのではないか。ニュートラルは柔軟性をその旨としているので未知に対して後退するようなことはしない。恐れを知らないことろがある。無鉄砲なところ。故に残念ながらお花畑の平和ボケが似合ってしまうところもママあるのだ。子供のように無防備でも恐れを知らない、理論的に解っていても心情的には戦争自体に無関係に生きていられると思い込んでいる、みたいな憲法9条が似合う国民に思えてしまうのもまたニュートラルのせいかもしれないのだ。明治維新の「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船) たった四杯で夜も眠れず」一大事に狂歌を詠んでいる余裕もニュートラルの仕業だったのだろう。ニュートラルだけでは国も国民も滅びても致し方ないのだが、ただ二刀流の実現のように突破口を開く、与えるのもニュートラルらしく、このアンビバレント、矛盾を抱える包括性、両義性がまた古来からの日本らしさなのだ。
11/7/2023





ニュートラル24
千葉雄大(1989年生まAlれ。2010年『天装戦隊ゴセイジャー』で主役、俳優デビューの出世作)はニュートラルを発散し続けるするTVタレントの男代表と言ってもいい存在だろう。「真面目で芯が強くメインキャストを引っ張る頼もしい存在」(共演者評 Wiki)。1日中ニュートラルでいられる人は居るはずもなく、やり時はやる、と気を抜いたときのニュートラルは勿論共存できる。
旧ジャニーズもニュートラルの雰囲気を持つメンバーが多数
居たが、犯罪被害をそのまま放置するような、ヘナチョコ男子ばかりだったという事実があのジャニーズの雰囲気を作ってい
たらしかった。ニュートラルの仕業に似ていたとしてもヘナチョコばかりに歓声を上げていたファンの所在無し感は如何許化か。直ぐにじゃあ、AKB48は?と来るのであるが、枕は無いと思っているオタク、ファンは少ないだろう。一部ではあり得る、が共通認識か。対して旧ジャニーズはほぼ100%だった公算で、マネージャーまでが恩恵に預かっていたいう組織ぐるみの犯罪企業だった。ファンも裁判沙汰で一部にはあったと認識していても自分の推しは違うだろうと思っていたのではないか。旧ジャニーズの裏の残念なニュートラル臭が負の境界線と言えるかもしれない。この辺は要注意だ。
千葉雄大の人気は、酒井敏也(1959年生まれ、役者)など、からの流れだろう。個性派の俳優やタレントが軒並み人気上昇しだした時期があった。紋切り型イケメン俳優から人気が多様化した時期。ポストモダンの「差異」や「多様体」のじわじわした浸透が大衆化したというのかもしれないが、そういう推しの在り方が自分の人間の幅の広さをも証明するような。集約された価値観が崩れ、人気の対象が拡散。オタク文化もその流れだろうが、21世紀も四分の一、四半世紀を過ぎようとしている。三島由紀夫の展望も当たっているところはあたっている。
日本シリーズ 最終戦の視聴率 関西38.1% 関東18.1%
ワールドシリーズ2023 平均視聴者数 911万人。残ったチームがローカル(優勝チームがアーリントン39万、凄い田舎でもないテキサスのダラス130万近郊、都市圏は760万あり全米第4位、でも知名度が……。アリゾナフェニックスは160万人)で全国的には不人気の方(レンジャーズ、ダイヤモンドバックス)だったとしても史上最低だそうだ。多様化の時代と云えどもメジャーリーグのファン離れは年俸の上昇からは異常に見える。二刀流とその異常年俸以外で世界クラスは見当たらない?か。
最終戦を両方観たけど、日本シリーズの方が話題その他盛況だったろう。最早日本シリーズが世界一決定戦(恥ずかしい言い方だけど)?の盛り上がりだけはあったと思った。
11/10/2023





ニュートラル25
ヨドバシにしては洒落ているポスターがインテリアの下部カテゴリー、「動物」のところにあったので買い物カゴに入れ手続きをした後、他のものと一緒に届き、壁に吊るした。動物というジャンルに配属されていた謎は解けないのであるが、正式なポスターのようでデザインも構図もキマっている。映画はほぼ恋愛ゲームの観点から構成され、ラブコメと言えるのかも知れない。小説も文庫本で持ってはいたが、導入部の物語の何年か後の回想が、自分の感性には合わなくて数十頁で放置していた。電子版が出ていたら改めて挑戦しようと思い調べると村上春樹訳が登場していた。旧訳よりは読みやすそうだったのでKindleで読み始めた。
小説は結末が全然違うとは知っていたが、中身もどうしてどうしてヘビー級だと思った。記憶は生存する為のバイアスで主人公(駆け出しの小説家 映画はジョージ・ペパード)の過去の話は辛いものばかりだったが、ホリー(ヒロイン、オードリー・ヘップバーン)の語る過去は理想の作り物で楽しいものばかりだった。動物的な生存よりも人間的な喜びが勝り、空想を繰り広げていたのだった。非在の現前。想像力を駆使する小説家向き、と思わせるような展開は作者も主人公も小説家だからなのか。
このヒロインは「はすっぱ」と日本語では表現されるのだろうが、映画のオードリー・ヘップバーンは撮影時31か32歳の女盛り、成熟度が勝っていて若さのはすっぱには無理があったと思う。原作ではまだ青臭い18〜19なのだ。印象が全く違ってしまうだろう。日本に当て嵌めればアイドルの年齢でありオードリーの完成度とは随分な隔たりがあった。18〜19のオードリーを思い浮かべるか、一旦オードリーを消して読み進めるか。作者カポーティは34歳で出版している。
モラトリアムの18〜19のまだ何者でもない女の子の奔放な生き方、ニュートラルの純粋な暴発と受け取っても良いだろう。主人公やバーのマスターが惹かれているものは個性的で奔放な小娘の様相を呈していてもセクシーさの抜け落ちた実はニュートラルそのものに惹き付けられていたのではないか。
まだアイデンティティの確立していない10代では欧米人とてニュートラルは発揮される。それは二刀流がリトルリーグやハイスクール、大学野球で可能であるところからも見て取れる。表現者やアーティストは独自のスタイルを持ち自己同一性が強固に確立されているように見えてバックグラウンドではニュートラルを活用している筈だと思う。
『ローマの休日』でも23歳。この映画で自由奔放を求める娘役のイメージが確立されてしまいティファニーもその延長線上と言えそうなのだが、一時の自由と、24時間ずっと奔放でいられるのとは意味、質が違っているだろう。
『ティファニーで朝食を』はニュートラルの氾濫を描いている。そこに遠慮や規制は要らない。ままでいい。観たまま受け取ればいいのだろう。
11/12/2023





ニュートラル26
STU48の推しは今年24歳になる。12月、あと3週間くらいか。流石にニュートラルを探すのは難しくなっている。オタクの面白さは大人メンバーからは子供っぽさを探し、幼いメンバーにはちょっとした色気(大人っぽさ)を見つけようとする。そのようなアンビバレントな発見を歓びとして持っているのだ。ニュートラルは共存できるし、共存で力をより発揮することもある。独占する以外に有り得ないアイデンティティとは共存の有無が違う。自己、自我に関する「多様体」が生まれ得ない体質というものが最初から原理的に染み付いている自己同一性。欧米は1か0のデジタルで日本は0〜12の境界線を滑らかに超えてゆくアナログ時計の短針に例えられるかも知れない。前にも指摘した通り悪人(市民を逸脱した輩)の描き方が徹底しているハリウッド映画と『容疑者Xの献身』の善悪を横断、行き来している人間の違いにも現われている。例え子役であってもそこに「小さな大人」(自己同一性)を表現するハリウッドと子供特有の可愛らしさを強調するアニメ(漫画)は雲泥の差だろう。『リコリス リコイル』というアニメは闇の始末屋(といっても悪を未然に防ぐ組織)リコリスを一番疑われない女子高生の風体で執り行うがコンセプトのオリジナルアニメで、昨年の放映で話題になった。ダブルキャストの17歳千束(チサト)はナンバーワンの凄腕でありつつ組織にあっても自分らしさの主義で動く自由奔放さを担い、相棒のたきな(タキナ)は組織に忠実だったが1度の逸脱で左遷されてくる中央指向のエリートコースを望む滅私タイプのメンバーだ。錦糸町駅北口近辺の支部、和カフェ喫茶「リコリコ」の店員として出逢う。
表現としてのニュートラルは女子では中学、高校生がピークのようだ。ホリーが30前後だったら「あばずれ」に成りかねないからだろうし、無理を押して32歳でAKB48の最年長記録を更新していた柏木由紀も卒業を発表した。女子中高生でニュートラルが消えるのではなく、表現として描きにくくなるだけだ。日本人は「多様体」の一要素としてニュートラル、その他を残せるのであるから二刀流も可能だし、アメリカ人メメジャーリーガーは一刀流の自己同一性の一義に因われている。
メジャーのストーブリーグの去就、記事は書き放題で百花繚乱、アメリカ選手がほぼ契約金額で未来のチームを選ぶのに対して大谷翔平は額は気にせず、ポストシーズンに出やすく、且つ二刀流に相応しく生活しやすいチームを望んでいる。多様な要素が絡んで予想しにくい予想記事が花開いているのだ。野球を愛するが故の6億円相当のグローブ(一校3個)を日本の全小学校に寄付というスケールの大きなニュースも新天地へのいい景気づけだろう。
11/14/2023





ニュートラル27
前回は女子の表現としてのニュートラルについて書いたが、では男子はどうか。自由奔放な放蕩息子や不良のイメージとは違うし、似合わない。思いつくのは「無頼派」と呼ばれた戦後の絶滅危惧種。大酒呑んで街で暴れ警察に連行される無頼派の作家が多かったのだ。太宰治、坂口安吾、織田作之助が色々なサイトで必ず取り上げられている無頼派の代表作家だろう。共通点は小説家としての実力が抜群だったこと。太く短い人生。実力と実績がなければただの不良中年で終わった人たち。生身の身体を持っていたり(実在のアイドル)、また2次元3次元でも女子中高生が前面に出ている女子に対して、無頼派は作品を作る、謂わば裏方であること。両者に接点はないのであるが、作り手と演じ手と見事に分かれている。アイドルは容姿と人気で成れる可能性があり、そしてそういう夢を持っている子供達も多いが、無頼派を夢見る男子はほぼ皆無だろう。ハードルが高すぎる。不良中高年が活躍する場は現実にはほぼない。女子の容姿と人気は何処にいても役立てることは可能だろうが……。
ただ物語の中では無頼派は生き残っているし、メインストリームの一ジャンルと言っても過言ではない。アウトロー。松本零士のキャプテン・ハーロックは言うまでもないし、『ワンピース』のルフィとその仲間たち。『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジャック・スパロー。多分に詐欺師の要素(重厚さよりもフットワークの良さ)も入っているが奔放に生きている海賊のキャプテンだ。ハリウッドの刑事映画、日本の刑事ドラマでもアウトローのはみ出し刑事が活躍する場面は多い。最も売れたTV・PCゲームGTA5(Grand Theft Auto V)は銀行強盗から始まる犯罪が主要なゲームだ。アメリカ人の考える自由奔放には必ず?悪の象徴、銀行強盗が入っているらしい。市民として禁止されているから余計に演ってみたい。それは子供の頃からの真実なのだろう。
『リコリス リコイル』でも出てきた闇の処刑人という善悪の混ざりすぎた存在。多様体の人間でしか実現しない人間像だろう。将棋の世界では升田幸三(三冠を初めて取った実力派でもある)という無頼がいた。プロレスの面白さには罵り合う口撃合戦がある。
スポーツでは何と言っても二刀流は最大の無頼派と言えるのだろう。これからの小中学生は二刀流を将来のなりたい職業に加えるだろうから、それは無頼派を志向していることに繫がっている。大谷翔平はベーブ・ルースを記憶から復活させたのみではなく日本では無頼派をも復活?させようとしている。二刀流も無頼派同様に職業であっても実力が(タイトルを取れるくらい)抜群でなければ成り立たない。メジャーでは大谷翔平の才能(ユニコーン)は百年に一人、これから百年は出て来ないだろうと予想されている。無頼派は昨今の些末なことからの炎上騒ぎを見ても更に出にくいのかも知れない。ただその著作は永遠に読みつがれ憧れる読者が続いてゆくことは確実なのだろう……。
11/15/2023





ニュートラル28
「教祖は笑わない」社会科の教師がかつて云っていたことだ。3DCGのDAZ Studio4.22のExpression(表情、顔つき)のパラメーターは笑い(Smile Open Full Face 目一杯100%に近付けると)と微笑(Smile Full Face)を区別している。歯が全部出るか、一本も出ないかの違いだ。乃木坂46の筒井あやめは笑わず微笑むだけが特徴(個性)になっている。普段からそうなので根っからのアイドル気質を持っている貴重なメンバーだろう。日本人の特徴にスマイルと言われていた時代があった。外国語は苦手だけれど愛想はいいという。中途半端な領域の微笑(スマイル)と中途の帯域に広がっているニュートラルとの親和性は無くはないのだろう。微妙な言い方だがあるだろうと感じているからこそこれを書いているとも云える。笑っている人はニュートラルを体現しているのだが表現としては微笑がニュートラルの象徴になる。「ニマー」とも形容出来ようか。
ジョギング、ランニング、スプリントと走りでの速度(強度)における差異と笑いも似ている。英語は明確に区別されているが、日本語「走る」は曖昧だ。ケニア(アフリカ全般)のマラソン・長距離の選手は踵を地面につかないスプリントでマラソンを走りきっている。大迫傑選手も。かつて五輪で2連覇したアベベ(エチオピア。ローマでは裸足で走った)は母国は道路状況が悪く、足が傷ついて出血した跡を獣が追いかけて来て、逃れる為にスピードを上げ、それが良い練習になったと語っていた。つまり踵を着かない方が足の怪我の確率が大幅に減るのである。そういう事情があったのではないかと想像される。逆に200m、400m で1990年代のオリンピックで金メダルを取ったマイケル・ジョンソンは短距離であっても踵を付いて回転の速さで世界記録を連発した。走りには越境もあると言えるだろうがそれは一般人には無理な例外でもある。
「笑い」と腹を抱えて涙が出るような「大笑い」(抱腹絶倒 出典は『史記』である)。これらも質的に違っている。微笑、笑い、大笑い。となる。走りのような越境も普段見られないようだ。ただ歯を見せ、不動のまましゃべる腹話術的な特技を喧伝するアイドルがいるのも事実。笑いをスマイル的に使っているが越境ではなく、微笑で歯が見える体質的な人々だ。歯を出すというより、口がやや開いてしまうタイプ。バリエーションであり、どれもスマイルに入るだろう。
スマイルは不思議だ。愛嬌(相手を受け入れる)でもあるし、ニコニコとご機嫌な状態も表現する。相手に興味を持っている事を表していることもあり愛情表現にもなるだろう。そして笑ってしまうと軽蔑に受け取られたりするから要注意だ。
笑うことは開放感、ニュートラルを作り出すのであるが、そういう状態と、表現としてはニュートラルはスマイルになる。この差異、ズレにはどんな秘密が隠されているのだろうか…… 。
考察を進めると、笑いあえる間柄はニュートラルな関係になった証明・証拠とも言え、そういう間柄に成りたいを表現するスマイルはニュートラルの導入部でもある。既に得たものより、これから成りたいの方がアピールは強い。微笑はモナリザがそうであるように弱々しく見えて強度は強い、ニュートラルを誘惑しているから、でいいだろうか。
11/17/2023






ニュートラル29
「ヒロシのぼっちキャンプ」(BS-TBS 水曜10時)という番組がある。もともと「つぶやく」ことが持ち味の芸風で、誰かとコンビを組むのは苦手なようだった。それでは大して撮れ高も出ないようなので途中の買い物から始まる。54分で一本の番組だ。買い物は当然店員との会話が含まれ、交流も生まれる。人間関係のしがらみ、社会生活との対比を見せておくのは番組作りの常套手段か。自然散策、テントの設営。火起こし。料理、食事、消灯と続く。ディレクターとの掛け合いは愛嬌なのだろう。実質はぼっちではない。放送倫理検証にかけられても不思議ではない程の誇大広告だろう。しかしお笑い芸人だから、とその辺は許されてしまう。ただしスタッフは適当に切り上げホテルで休息するのではないかと邪推する。これならば最低限ぼっちでのキャンプと言えるだろう。一度俺だってホントはホテルのベッドで眠りたいと本音を吐いたことがあった。誰が好んで硬いテントで眠りたがるものか、と。目的地へ向かう車の中で吐露した。本当のところは一泊二日のキャンプに見えて、数日かけているのかも知れない。1週間に一度の撮影ならそんな弱音を叶かないだろう……。キャンンプ地は人が多いと撮影に支障を来たす。景色も気候も季節外れで条件は良くないのだ。ヒロシはWebの「ひとりキャンプのすすめ」「ソロキャンプの本」出版、その他で忙しいらしい。「焚火会」というソロキャンプのグループ活動もある。確かに余暇でも忙しそうだ。既に余暇では無いのかも……。
本題、ぼっちはニュートラルかどうか。ぼっちは弛緩か緊張か、と言い換えると始末が悪い。ほぼ半々ではないか。一人(暮らし)は他者への気兼ねはないが、全責任、全対応が自分の肩にかかってくる。一人とは意外に緊張しているものだ。メリハリもなくなる。弛緩しているのか緊張状態なのか分からなくなる。曖昧模糊、これぞニュートラルなのかも。
メジャーリーグでは両リーグのMVPの発表があった。満票2回目は史上初。大谷翔平選手の子犬も注目された。犬種も謎めいていた。新人でも髭面が多いメジャーの選手はソクラテスの風貌も見かける。近代の哲学者はこのぼっちキャンプのように自己と向き合うスタイルで成り立ってきたが、ここに来てのオブジェクト指向など、哲学者が代表して考える(内省、自省、反省)を放棄、多様化の方向で各自がぼっちキャンプで答えを出すような方向に持っていこうとする意図も見え隠れしているように思う。普遍を標榜するような自信満々な哲学者が居なくなったと思えばいい「ぼっちキャンプ」
11/18/2023





ニュートラル30
ヒロシのぼっちキャンプ
これはヒロシが自分のためだけに
ひとりぼっちでキャンプする番組です
ーー
ひざまずいていては 自由になれない
空のグラスを 高々とかかげて
どこへ行こうと 自分らしくいよう
自由でいるために 僕に構わないで
道は見つけるから 迷いなく空をめぐる
星のように 信じたルールで
生きてみたい ゆるぎなく
ーー
番組冒頭の走行にかぶる文字列である。シーズン8が現在。2018年から始まる。シーズン3までは30分番組。その後54分に。シーズン2の2020年から連続している(半年でワンクール)。
冒頭、引用ではないよう、なかなかの力作かも知れない。近年稀な意気込みや情熱の感じられるオープニングだろう。ここまではバラエティー番組(出演がヒロシのみでこの分類らしい)を超えている。普段あまりTVを観ない思索的視聴者には引っかかるアプローチ。番組が30分か、54分か曖昧だったので補足ついでに。

『ある男』(平野啓一郎 2018年 文藝春秋 読売文学賞受賞 2022年映画公開 妻夫木聡主演 最優秀作品賞始め最優秀8部門受賞)を読んだ。
設定が東日本大震災の起きた2011年だからかヘイトスピーチ、関東大震災の朝鮮人虐殺、そして弁護士の主人公が在日三世、という絡みがあって、戸籍交換のモチーフが特殊な人間に限定されかねないシチュエーションになり、一般人読者の感情移入としては反ってボケたんじゃないかと思った。X(旧Twitter)でしきりに憲法9条を守る陣営の発言を続ける作者は政治の立場を小説にも持ち込むらしい。フィクションの方が曖昧さを加味してやわらかいが、作品の完成度、テーマが動くのがもったいない気もする。出自や過去を消したい男たちがブローカーの仲介で戸籍を交換する。極悪犯罪者の血が流れていたり、極道の組長の子どもとして生まれたり、自らが犯罪を犯したり、ろくな戸籍は無いのであるが、唯一家庭不和のきれいな戸籍と二度目に交換できた「ある男」の生涯の足取りの解明がメインのストーリーになっている。
感想を実感として述べるならば、「誰でもない自分」というニュートラルな自己の在り方が抜けていると思った。日本の知識人の定番同様に西洋化された人間に近いと感じさせた。分人が生かされて居ないのはニュートラルが抜けていて、常に誰かで有り続けるからか。戸籍でアイデンティティを決められ、自己同一性が確定しなければ落ち着かない、我慢できない、生きて行けない人々ばかりが登場する。ニュートラルを活かして生きている大多数の日本人が登場しない。あるいは視界に入ってこない。
「ある男」の出自、当人の人生、犯罪歴はあったのか、など?謎の追求、ミステリーとして上手く書かれていて秀逸だ。
ハル・ベリー(黒人で初めてアカデミー主演女優賞を取った)が自宅近辺で黒人はアカデミー賞を取ってはいけないという中国・韓国系住人に排斥の嫌がらせを受け、日本人も同様だろうと日本行を渋っていたら大歓迎されたというYoutube動画を最近見たのであるが、黒人差別をしない日本人というスタンス。と、「ある男」での出自で苦しみ戸籍を交換するという人間像が違いすぎるのだ。国内学生よりも隣国の留学生に手厚い日本政府同様に、一般的な日本人も外国人に優しく同胞の日本人には厳しく差別するというのか。平野啓一郎が政治的立場、嫌日?から日本人を殊更嫌いにしようとしているのか、警戒が必要な作家であることは確かなようだ(差別意識の薄い典型的な日本人である主人公の妻。ヘイトスピーチに反対行動を起こす美涼という脇役が出ていてバランスを取っているが、反って要注意、警戒すべき、に思える)。
11/21/2023





ニュートラル31
「小説家は、意識的・無意識的を問わず、いつもどこかで小説のモデルとなるような人物を捜し求めている。ムルソーのような、ホリー・ゴライトリーのような人が、ある日突然、目の前に現れる僥倖を待ち望んでいるところがある。」(『ある男』)。ホリーは文壇という業界では代表的な書く欲望を刺激する人物像と云えそうだ。
この小説で気になったこと補足すると別の戸籍を取得し、自分の過去に新しい別人の過去を上書きする(特に配偶者など近い者に話す事によって)、これは取材や文献から得られたものだろうが、「多様体」の自己とは矛盾している。多様体は人間を発達に因って、つまり上書き可能であると見ないからだ。新しい自己をプラスとして、一要素として取り込んでゆく。時間をかけて、それが成長だ。ベルクソンの「純粋持続」は常に時間の「上書き」の連続(瞬間)で成り立っている、一方「多様体」は時間を空間化し、極端に云えば要素(過去)を現在と並列しているようにさえ見える。過去とは「上書き」されて既に無効となってしまったモノなのか……。
平野啓一郎の「分人」では「上書き」は可能と考えているのか、『ある男』では主人公は当事者ではなく聞き手に過ぎないから曖昧に終わってしまったフシがある。曖昧にしか出来得ない立場を選んでいる。ティファニーの小説家が描くホリー・ゴライトリーのように。上書きの(反復の)効果は良くはわからないままだった。勿論読者にとっても。
「生成変化」という裏技的な、逆転ホームラン的な大技もベルクソンの系統であるから「上書き」が可能である前提で成り立っている。「多様体」とは論理的に齟齬をきたしている。人、人間に関してはどっちを取るか。二者択一になってしまった時点で包括的な体系としての合理性は消えていたのかも知れない。動物に「生成変化」して、馬人間に上書きされて次にどうすんの?精神分析の対象として生きてゆく?破滅の奨励?そりゃ「動きすぎてはいけない」は当然の苦肉の帰結であろうし、分かりきっていることをわざわざ書かなくはならない哲学とは……
11/25/2023





ニュートラル32
「人前で嘲笑される 「恥辱」に関しては、人種を問わず誰もが嫌な思いをするものですが、日本人の場合、人前で褒められた際に感じる「羞恥」にも敏感で、他人から注目されること自体に恥じらいを覚えます。これが、日本人的な「恥」の概念といえるでしょう。」(地球の歩き方BOOKS S01『今こそ学びたい日本のこと』2022年 学研プラス。1990年生れの蜂谷翔音。1985年生れの松本まき。共著)
「人前で褒められ」「注目されること自体に恥じらいを」と書いているところで信用できる書き手であろうと思った。学者でも物書きでもなく、マジカルトリップという会社で海外からの旅行者のツアーを考案、実践しているガイドが書いたもので日本についての深堀りも出来ている。神道、仏教、わびさび、粋、職人気質などは全般にわたって繰り返し強調され、冗長なところもあるけれど、そのコアは基底故に頻度が上がっても仕方がないという構成になっている。異国からの旅行者に説明できること、質問にも応えられるような内容を目指した本文は日本に興味のない、日本を破壊しようという学者以上の知識を感じさせ、ちょっとした日本通を自認する層を凌いでいるだろう。蜂谷氏は高卒後、カリフォルニア大学社会学部を卒業、 2年半のミャンマー駐在を経験後この仕事に従事。日本を理解する上で異文化の海外と比較することの重要性を体験している。日本オンリーでなく「急がば回れ」海外を知ることが日本をより深く理解する要因になっているだろう経歴にも注目すべきだろう。
昨今のインバウンドの統計でも目的の1位が食文化、本場の日本食を食べること、観光も食べ歩きに人気が集まっているのだという。居酒屋も、料理と飲酒、両方が楽しめる、これも分離している海外からすると驚きらしい。
サッカーの本田圭佑が730円のラーメンに2000円払うと物議をかもした通り、寿司、天麩羅、蕎麦の次に注目されている日本のラーメンのコストパフォーマンスは相当なもので海外でも認められている。日本在住のフランス人が両親を酒田市のフランス料理店に招待しその味を堪能、フランスでは万を超える料理が日本では二千円台で済むと驚いていた(YOUTUBE)。日本料理だけではなく日本の外食は汎ゆるジャンルで外国人を驚かせる完成度の良さだ。お好み焼き、唐揚げ、果てはコンビニのスイーツに至るまで海外から来ると脅威の品揃えと美味しさが味わえると評判だ。自販機のコーヒーが温かいのも。日本独自の駅弁、お弁当類、おにぎり、給食に至るまで注目されている。リピーター向けに日暮里の駄菓子屋街が主要ツアーに組み込まれる日も近い気がする。
「神道では「万物には魂・神が宿る」と考えられ、ものを生み出し、つくり出す力を「産霊・ムスヒ」といい、つくり出す作業自体が尊いとされ、「魂を込めてものをつくる」思想が生まれました」(同上) 島国で、しかも鎖国で更に独自な文化が保たれ発達してきた。明治の開国後も第二次世界大戦後の占領下でも消えなかった独自な文化・文明は本物だ。ガラパゴスと最先端のテクノロジーを併せ持つ。特異性が負の要因になっていないところも世界から注目される由縁だろう。
夜中の無人販売所から盗みを働いて出てくる容疑者の映った動画がTVニュースで放映されていた。日本も治安が末端では悪くなっているという印象を与える。時代劇や刑事モノのフィクションは差っ引いて考えられるが、ニュースソースの印象は強い。『ある男』でも出自の良からぬ人々や犯罪者の子供、前科者など日本では差別されるのが当たり前を前提に書かれている。そう強調しないと戸籍交換などの整合性が生まれないからだろうが、ニュース番組はどこの国でもネガティブキャンペーンに通じる過度に強調してしまう要素は十分にある。小説、フィクションと云ってもリアリティが必須なジャンルは影響も残る。留意が必要だ。
既に色々なところで書いて来てしまったことだが、最終的には日本人が独自に持っているニュートラルが、そのニュートラルから導かれる一般人の利他の親切心が生むホームの安心感(日本というブランド)が最大の観光目的になってゆくのではないかという、初来日以後のリピーターの要因ではその予想もあながち外れてはいないだろうと思っている。
11/28/2023





ニュートラル33
「裸の大将 富士の国・山梨篇〜富士山にニセモノが現れたので〜」(BSフジ 11/25 再放送 塚地武雅 山本ひかる 津川雅彦 水川あさみetc 2008年10月18日 塚地の第3作 平均視聴率13.8%)
山下清(1922-1971)はニュートラルを象徴していたのか、が今回のテーマです。当時のTVワイドショーは山下画伯や寺山修司(1935-1983)が登場していたり、TVに出られること自体に権威があり、ステータスであり、所謂ハードルがとても高かった。その道での相当な功績がないとTV出演にまで到達しない時代だった。
TV画面の中の山下清の印象はオドオドしていて、楽しそうではなかった。ドラマでも画伯と持ち上げられることを嫌っている。人前で褒められることにも羞恥を感じる典型的な日本人だったろう。1938年東京銀座で初個展、1939年大阪でも個展。多くの絶賛のうち梅原龍三郎の烈しさ、純粋さはゴッホ、アンリ・ルソーの水準(Wiki)と評価された。1934年に八幡学園に入り、式場隆三郎により「ちぎり紙細工」を覚え、才能が開花していった。普通の小学校に通っていたことから障害は重くはなかったようだ。放浪好きで分かる通り、自遊人、枠にはめようという学校に反抗していたようである。
ドラマは居候するある家族のホームドラマを絡めて話が進行する。あらゆる協力、画力も使い、バラバラでギクシャクしていた一家の再生に尽力する。利他行である。この辺の優しさはニュートラルの発揮と考えて良く視聴者はその純粋さに脱帽する。旅行者に優しく接する日本人は加齢でも純粋さを失わず、山下清と同等のナイーブさを何歳になっても持ち合わせていることが素晴らしいのだ。若年の自己を失わない日本人、「多様体」であるという証を見てるようだ。子供の「純粋さ」を多様体の一要素として生涯持ち続ける。それ故「オレオレ詐欺」にも引っかかる、というオマケまで付いてくる。被害者は山下清並みの綺麗な心を持ち続けているのだろう。願わくば多様体は詐欺を警戒する自己を併せ持つことも可能なので折り合いをつけて欲しい。
ドラマは脚色されているが、現実にも同じようなエピソードがあったのかどうか、フィクションがほとんどなのか、ただありそうなストーリーだと思わせたらドラマとして成功なのだろう。日本人の良さを確認できれば。ニュートラルから導かれる困った人への思いやりの発露と利他行の実践を再確認できれば……。
11/29/2023





ニュートラル34
「民主主義の危機や分断に 断罪より修正」(産経新聞朝刊11/29/2023 批評家 東浩紀)「人類は変わらない。共同体は「守る」「変わる」両方必要」(サブキャプション)
修正主義はマルクス主義では異端。東浩紀は反体制をやめたのか……。というよりも哲学をやめ批評家として、ごく常識的な知恵によって生きてゆこう、と。この寄稿を読んでこれしか言っていないと思った。書籍の方は相変わらずギリシャ哲学から始め権威づけているらしいが、庶民が日々、大抵の人がごく自然に行っている「修正」という行為が殊更強調され、取り上げられているが、その意味は自己の哲学(自説)のギブアップにしか思えない。上梓した著作は随筆として面白いのかもしれないが、これ程中身の薄い、スカスカの内容を読んでどうしようってのかサッパリ解らなかった。「もう左も右もない時代」という常套句は転向の照れ隠し、言い訳としてあった、同様に「保守もリベラルも」と宣言することが令和の転向の新しさなのだろうか。民主主義は常に揺れ動き、汚れていて、安定したことなどなかったのではないか。
と書いていて、これほど中身のない文章を綴っていることも稀だろう。「保守もリベラルも」両方必要。これは中庸、ニュートラルに近い考えだろうが、「修正」という「知恵」、一言で片付けられる気がした。
11/30/2023





ニュートラル35
新しい環境(部屋)に移り、来年には購入しなければならなかったデスクトップPCを価格コム限定モデル(2〜3万Off)で手に入れていた。Dazで支払い済みのフィギュアのデータはすべてDL出来た。クラウドはこういう時には便利。スマホのアプリ。SimpleNoteもiPadで書いたテキストデータがクラウドに残っていてそのままAndroidスマホでも使用でき有り難かった。自動で同期される。PCのブラウザでも。
さてここに移り住んで(1ヶ月半)初めて実家(直線距離で600m弱)に行ってみた11/30日。AppleIDが固定電話認証だったので、iCloud(月額400円)が全く使えず、スマホ認証に変更すべくひかり電話のモデム、ルーター(ひかりは別の呼び名がある)などの電源を入れ(姉が殆どの電源を切っていた)、インターネットは繋がったものの肝腎のひかり電話は何故か駄目だった。プリンター(FAX可能)の電源を入れ忘れたか?40分位空回りしてからメインで使っていたデスクトップPC(パソコン工房のIiyama Level C class 約7kg)を日産の乗用車に(運転手は甥)。iPad。LANのルーターとNAS 3台。USBHD3台。これで大体重要なデータは移動可能だろう。LANケーブル(他のケーブル類も)を忘れて来たのでまだ飯山のコンパクトゲームPCを立ち上げていない(次回里帰りの予定は決まっていないので、新ケーブルを注文し配達を待っている)。
ミニ引っ越し(トラックでないので最低3回は必要か。その後家解体の工程も残されている)。
それまでの期間あれこれと考えを巡らせていた。引っ越し(その意味はPCとデータの移動がメイン)しなければ、今までの活動(人生)で蓄積されたデータを引き継がねば、戸籍を交換した『ある男』のように別人になれるかもしれないという幻想、妄想だった。シーン言語でスクリプトを独自に書いた3DCGのデータ。Wndowsアプリケーションのコーディングの痕跡。そして様々なテキストの文字列を捨て去り、過去をデッチ上げ、新しい環境で別人として生きられる。
良く考えれば大した人生でもないのでデッチ上げる意味があるのか、だろうが、想像力は人間を惑わせる。
「過去を捨てる」カッコイイ台詞だ。常に未来に向かって生きてゆく。ニヒリズムのシビレル物言いだ。テント生活のヒロシと勝負出来るかも知れない。
過去のデータを部屋に持って来て精神的には安定した気がする。それまでは不安定なところ、気掛かりがあった。消えた過去。消える過去。この年齢でまた一から始めるのはキツイ、モラトリアムの楽しさは若年の特権かも。
「過去を捨てながら生きる」とは表面上ニュートラルで生きているように見えるのかも知れない。多様体でなく、上書きされつつだろうから寧ろ西洋的な生き方、考えだ。無理を通す欧米の思想は強引であるが故に格好が良く見える。過去の自己を多様体の一要素として生きることは過去を引きずり、潔くない生き方に見えるのかもしれない。詰まらない、些末だった若い頃の自己を捨てないということが日本人の謙虚さに繋がっているのだとしたら、格好は良くないが悪くはないだろう。未完成を崇拝する茶道の精神にも通じる。早熟の天才以外はみんな未熟だった。
東洋思想の「業」(ごう。karma カルマ)という言葉は自己責任を永久に追求することだと教授は言っていた。一旦起こした事件、出来事は刑期を終えても消えないということ(逆に果報という果実も永遠に残る)。
立派な過去の栄光を持つ少数の偉人、ではない大多数の庶民。
過去に向き合うとは未完成を身を以て知ること、大したことなかったと分かること、それは日本人にとって奢りを消し謙虚な姿勢に通じるに等しいのかもしれない。
12/02/2023





ニュートラル36
ABCのニュースキャスターとしてのキャリアを誇り、黒人女性として恵まれている地位にありながらも本国のアメリカでは依然として白人から差別待遇を受けていて、公共の場では白人との同席にビクビクしている主人公のYoutube動画で、日本旅行の、日本人の印象のコメントにはハッとさせられる箇所があった。妊婦でありパートナーは黒人、仕事のストレスからリフレッシュの為の日本観光が目的だった。日本を経験済みの夫が提案した精神の疲れの浄化スケジュールと言ってよかった。が本人は疑心暗鬼。島国で単一民族、差別的でありうる要素は整っていたからだ。空港や繁華街の綺麗さは観光客のほとんどの共通認識であるが、猥雑なアジアの印象が一変したのはいつ頃だったのか。乗合交通手段での静かさも騒音の激しい海外に行ってみないと実際日本人には分からないのだろう。
ラッシュアワーの満員の電車内である日本女性に席を譲られたエピソードがメインだった。自分の事より他人を優先して考え行動する。この席を譲る一連の行為がアメリカでは考えられないらしい。新渡戸稲造の『武士道』ではないが、道徳的に良い行い、その要因は学校、家庭、その他で訓練されたり教訓や規律を身に付けたり、そうして大方の国民に浸透し公共の場で成果として現れているのだろうと欧米人は考えるらしい。「民度」というのか。日本においても自国と同じように善行は意識的な行為と考えられているようなのである。新渡戸稲造はご承知のように『武士道』を当て嵌めたのであるが、21世紀では流石に武士道では通用しないであろう。違うなと思ったのは、日本人でも不思議な事ではあるのだろうが「誰でもない自分」という自己喪失のまま公共の場でも居られるのが日本人の特質、他人を優先して考えられるのも規律で縛られているからというより、誰でもない状態で居られるのが主因だと思っている。実は日本人にとって「無我」の境地は日常茶飯事のありふれた現象、余りにも浸透し過ぎていて気付かない仏教の深遠な修行者の、無限に遠い「悟り」に等しい境地なのだ。子供から大人までいとも簡単に越境してしまう。日本人は宗教を意識していないが、修行を普通の行為として行なっている民族、武士道を考えなくても良い最高レベルの宗教国家といっても過言ではないのだろう。オレオレ詐欺に引っかかるのもマヌケだからではなく、「無我」から起こる「慈悲」という宗教行為に近いのだろう。
ニュートラル、無我、から導かれる慈悲、慈愛の宗教は世界的にも知られている仏教と名付けられるだろうが、自然発生的に定義されるなら「古神道」に倣って「古仏教」か「原始仏教」(歴史上ではなく字義通りの原始)、さもなくば「無自覚仏教」。倫理から来るものではなく、日本人の体質・気質から起因、行われているので海外の公共の場でそのようになるのは至難の業かも知れない。国民の気質改造は道徳や法律で縛るよりも難しいだろう。歴史的蓄積がものを言うのであるから。法律や監視カメラで強引に実行すれば、それは『1984』の世界到来か……
日本観光から日本を気に入り、自国を捨て日本への移民を選択する(身軽な)外国人も多くなって来た。ハイスクールの卒業間近に日本の高校へ集団で転校する動画も見たが、日本への関心の高さが脅威のルートを作り出している。アニメの影響恐るべし。この動画のニュースキャスターは心機一転、日本滞在が自国アメリカで頑張る刺激剤になって帰って行った。
高速鉄道などインフラの輸出でもそれを快適に動かすシステム、更に従業員の気質まで輸出出来るのかと考えてしまうと難問が付き纏うだろう。アメリカでの日本の自動車メーカーの工場での試行錯誤は今も続いているのだろうか。
人間性や気質の輸出が恐らく最難関なのだろうと海外からの旅行者の印象から思ったこの頃なのだ。
12/07/2023





ニュートラル37
最近のYoutubeの傾向、日本への移民が双六や人生ゲームのゴールのように思える動画が増えている。観光立国を絶賛するテーマにした作りから、移民をターゲットにした段階に進んでいるのだろうか、と思われる。人種差別の例外的に少ない、そして治安が良く子供がひとりで通学できる日本へ、シフトチェンジしていると感じられるのだ。日本向けのコンセプトから、世界の人々が主眼の移民案内でアクセス数を稼ごうとしているかの如く。欧米人からは日本人の秩序ある行動の源を市民レベルの高さ、つまり先進国の次元の高さと感じているのであるが、日本人は市民意識を持っている人は少なく(プロ市民のイメージが悪すぎる)、全体でも高くはないだろう。市民という意識の形成の場が殆どないからだ。市民、良識、政治意識の高さと続いてゆく一連の過程、そうした近代社会の人間像を持ち得ていなく、しかし日本人は利他で、利他から考えられるのだから公正な政治判断に秀でていても不思議はない。が、政治はむしろ他人任せなところがある。
世界旅行に長けている人々の総合的な発言、日本が他の世界から離れて存在し特殊な民族性や文化を持っている国民、国家であるかのように指摘されるのであるが、果たして日本人はガラパゴス、根本的にマイナーなのであろうか。そのように片付けられたままで良いのだろうか。むしろ日本人の方が正統であり、他の世界が特殊であるとした方がいいのではないのかとふと思うのだ。カタルシス目的で日本にやってくる欧米人が求めていることはインフラに見られる最先端の姿とは別に、原始的な純粋さの方だろう。子供は多分に身勝手だが純真でもある。近代をリードして来た欧米人が求めるものが日本にあるのだとしたら、子供の気持ちのままに生きられる、利他や親切心なのであろうと。その原始的なものと先進的なインフラの共存もまた魅力に磨きをかけていることは間違いではない。原始的で部族社会では当たり前すぎるのだ。例外的に欧米人も日本人もアフリカのそのような社会に溶け込んでしまう人達もいるのであろうが、近代化された生活をすべて捨て去り、部族社会に一生を捧げる欧米人は実際のところほとんどいないだろう。
「多様体」であるが故に子供の純真さを失わない、要素として保たれる日本人の方が人間の在り方として正統であろうと思っても不思議ではないと。成長という、子供を上書きして大人になる、という考えの方が特殊に見えるのだ。特異なその思い込みが実現している欧米社会。市民は子供であっては困る。そこに近代化の条件・制約もあったのであるが、夏目漱石の苦悩、近代人・欧米人への希求と葛藤は、三島由紀夫が感じたニュートラルで決着がついたのではないか。欧米人に似せなくても、全てを習わなくても近代化は可能だったし(政治意識以外)先進国になれた。日本はGNPやGDPなど経済的側面を近代や欧米化、先進国の指標として来たけれど、今では治安やインフラの住みやすさが先進国の度合を測る基準となっているようなのだ。ポストモダンとは本来そういうものだったのか、と思ってしまう。近代化しても空気を読む「多様体」を捨てず、担って来た日本人は近代以前からポストモダンであり続けていたのであるが……
観光、サイトシーイングとしての日本は伝統が残っている国という言い回しで語られる。その目的地、寺社仏閣など近代以前の遺産や古くから地域に根差し独自に発展して来た文化、元々あった美しい自然がほとんどを占めている。日本に比べて森林の伐採、自然の破壊が近代ヨーロッパでは凄まじかった。自然は人間にとって素材という認識(キリスト教の教え)。その反動で欧米の環境保護団体の過激さも目立つ、欧米人の優越感の変な現れ方か。アメリカ人の覇権国家の一員という意識、世界をリードし一番の先進国、住みやすい国(劣ると見なされる海外に興味を持たぬように教育で誘導されている)という気概は今でも高いらしい。アニメ・漫画がキッカケで日本・日本人に接し、意識を改める若者のYoutube動画も多い。謙虚で利他な日本人が覇権国家を担う、目指すことは理に反し、そういう意味でも現状日本は世界から特殊な国に見えて、しかし正統ではないかと思えるのは移民のゴールに成りつつあることも一因なのだが……
速報で大谷翔平選手の10年総額7億ドル(1010億円)でのメジャーリーグ、ドジャース入りが発表された。私の中では人間としての双六のゴールは二刀流、多様体を象徴する大谷選手だし、来シーズンからの活躍がますます楽しみになった。スポーツ史上の最高額は人間像の最高をも示していると思う。定番なのかも知れないが、WBCの優勝監督栗山英樹はインタビューの最後「生まれ変わるとしたらどんな人になりたいですか?」に即座に「大谷翔平!」と応えている。初の7億ドル、哲学史上の大事件とするのはわたくし一人だとしても感慨の深さに変わりはない。
12/10/2023





ニュートラル38
大谷翔平のドジャース入団記者会見視聴者7000万人が、バイデン大統領の一般教書(今年2月)2730万人を、数的にうわまったことは小さな快挙に過ぎずともニュースにはなる出来事だったろう。今年3月のWBCを題材にした映画の地上波ノーカット放送を見逃してしまい、慌ててYoutubeで観たのだった。『憧れを超えた侍たち 世界一への記録』栗山英樹監督を中心とした映像で振り返るその確かな軌跡。触りを観ただけで栗山英樹の根は文化系の人間であろうと思える。監督業の前にはスポーツキャスターも経験。解説もキャスターも文化系の素養が必要だ。文化系故なのか牽引してゆくタイプではない。裏方的であるし役目は繋ぎ、ニュートラルの要素に近い。ダルビッシュ有も今回は後方から大リーグで蓄えた力を十分に発揮していた。それ故自己の調整は不十分、最後に勝てて良かったと言ったところか。キャプテンを置かないという姿勢は裏表を全員が次々に役割を代えつつ回してゆくイメージなのだろう。憧れはチーム・アメリカとしての方が強く、個々の選手ではバッターは大谷翔平、投手ではダルビッシュ有がアメリカの選手より優っていたと思えるのだが、、、選手たち、そうではなかったか。村上様など殆どのバッターの目標は大谷翔平だったのでしょう。憧れも。ピッチャーにビックネームは居なかったアメリカチーム。この辺の可笑しさもよくよく考えてみると透けて見えてくる。事実一番の憧れは大谷翔平選手だったという名言を吐いた選手も居たようだ……。
冒頭に山川穂高登場?、、、良く見ればレッドソックスの通訳だった。小柄過ぎるけど風貌は似ている。コーチ連、アクの強い方は居なかったようで静かな雰囲気が占めていたようだ。一年以上かけての人選がチーム幹部の仕事の大半だったのだろう。あとは選手たち次第。全日本クラスとはそういうものなのだろう。
10年7億ドルのうち97%を後払い、10年以降にした契約内容でバッシングが一部で燃え上がっているのだが、確かに一選手が球団の行末やチーム作りにまで口を挟んでいるように見えなくもない。けどそれも人間観が絡んでいる問題なのだろうと思う。選手でありながら幹部の思考ができる。展望が効く。日本人が「多様体」で複数の自己を持っている証にもなっているからだ。選手は選手のアイデンティティを貫くべき、という欧米の人間観からのノーも理解は出来る。ここでも二刀流(多様体)の前例を発揮して欲しい。
12/19/2023
14:16 編集 パッシングーー> バッシング





ニュートラル39
イギリスが伝統の国といっても日本ほどではなく、イギリスがヨーロッパの辺境だった頃仏教が伝来した。その受容は待ちに待っていた救世主と見まごう程の影響力を秘めていた。明治に神仏分離、廃仏毀釈が行われた歴史にもかかわらず今もって影響力は大きい。「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)という言葉が浮かぶ。誰もが「仏性」を持っているということだが、「仏性」はWikiにこう書かれている。

仏性(ぶっしょう、梵: Buddha-dhātu[1])とは、衆生が持つ仏としての本質、仏になるための原因のこと[1]。主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である。覚性(かくしょう)とも訳される。
仏教では、この仏性を開発(かいはつ)し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。
(引用ここまで)

原因という言葉に注目。そして煩悩が残っていても、にも留意する必要があるだろう。「仏性」という意味内容にニュートラル(原因)に通じるものを思い浮かべたのであるが、ニュートラルが仏教の教理と類似していることは驚くべきことかも知れないし、いや仏教伝来、受容の歴史を辿れば奇異なことではないのかも知れない。
煩悩を残したままで成仏出来るとは魅惑の誘いである。煩悩が生活の活力になっている場合にその消滅を目指すとは生ける屍になり得るからだ。そこまでしたくない……。
ニュートラルはどんな野望も個性も問わないし、悪さえも拒否する理由を持っているわけではない。その辺の判断は保留だろう。仏教(宗教)との違いはそこにあるのだろうが、一切衆生悉有仏性、親和性は保たれている。包括性。包括性はとんがっていない分、穏やかで寛大。表面は静か過ぎるかも知れないが熱量は内包している。一瞥では分からぬ奥深さを持っている。多くの日本人の特徴線。スポーツの開放感は身体での情熱の表出と、いっ時の感情の爆発にあろう。冷静と情熱を媒介し吸収するものニュートラル。栗山英樹の時々の表情にはその変容が如実に現れていた。ニュートラルは掲示板の如くに人間(感情)を媒介させていた。優勝という最良の結果を得たとしても、ピンチに歪んだその表情は忘れられない。一流選手たちは汲み取っていただろう。でも一流の所以、それを跳ね返す熱量が消えることもなかったのだ。
12/20/2023





ニュートラル40
(読売新聞オンライン)
精読したのが、ドゥルーズの思想が凝縮された『ディアローグ』(大修館書店版『ドゥルーズの思想』)。あらゆる事物を異なる状態に移行する途中段階と捉える「生成変化」の概念などが「自己啓発本みたいにまとめられていて、それが効いた」。
(千葉雅也さん 現代思想研究の道選ぶ 2023/12/22 15:15
論:本よみうり堂 私を作った書物たち)
『ディアローグ』が1977年発行。『千プラトー』が1980年。集大成の著書でもある千のプラトーでは生成変化は逆行、子供へ、少女へ、女性へ、動物へ、無機物へ、分子へ、知覚しえぬものへ、と時間を逆行してゆく。千葉の理解では未来へ向けての成長と同義語のように生成変化を据えていると読める。3年の間に考えが変わったのならばドゥルーズの足跡としては成り立っているのだろうが、『動きすぎてはいけない』でドゥルーズがイギリス経験論からベルクソンへと足場を変えたことを無視し、経験論を自己の立脚点にしてドゥルーズを解釈するという前科を持っていたので、またもやらかしたのかと思っても不思議ではない。曲解も本歌より優れた思想を生み出すのなら評価出来るが、そうでもないなら読み違いに過ぎないだろう。
日本の現代哲学の雄がこれでは学ぶ学生も張り合いが失せるのではないか。期待していた訳ではないが余りにも不甲斐なく感じるのだ。
今年を振り返って思想界ではこの「不甲斐なさ」が一年を代表している感情なのではないのか、と思ってしまった。
12/26/2023





ニュートラル41
野球の本番アメリカで二刀流の実態(少年野球や大学野球までは普通に行われている)と同様に、ニュートラルは欧米人でも若者のモラトリアムの時期には発動されている。がしかしアイデンティティとモラトリアムは水と油、相容れないということになっている。大抵の欧米人はモラトリアムは過渡期、抜け出るものだと認識しているのだろう、市民社会で堅実な市民と認められ生きてゆくために。『ティファニーで朝食を』でホリーがリッチな上流階級の中年が、実は子供っぽいと言っていたのはアイデンティティ不明、モラトリアムのままで生きられる条件が揃えば、子供のようにふらふら、無責任で居られるということを目の当たりにしたからだろう。
二刀流とはつまりモラトリアムを抱え込んで生きてるのと同じことになる。このどっちつかずの状態を続けるには勇気と忍耐と強い意志とニュートラル(「多様体」)が必須の条件になってくる。
Youtubeで日本を海外からの旅行者によって称賛するYoutuberが乱立、競っている現状では、更に過激さを増してゆくのか、耳目を引く親日セレブを総動員させるのか、深度を深めてゆくのか、予断を許さない状態だが、日テレのレポートで立石(葛飾区の再開発を予定している旧商店街、取り壊す見込みの惣菜を売る古い店舗を元世界チャンピオンの内藤大助が紹介していた)およそ観光地とは無縁のひっそりした街まで海外からの旅行者がやって来る時代になったのだ。リピーターは観光地以外の日本へ行ってみたいという願望を持っているのは知っていたが立石までの進軍は意外だった。
アメリカNBC TVのプログラムで日本人が世界の模範(グローバルスタンダード)に選ばれ賞賛されている所まで日本が浸透していること、ジョーク?と思えるくらいに日本食と日本人の市民意識、異次元の民度が海外に受け入れられ始めている現象、本物だとは日本人として言えないし疑いも残っているが、自分のテリトリー「ニュートラル」(「多様体」)は日本人の特異性とずっと書き続けてきた経緯、日本人だけが持っている、持つ可能性があるとは言えなくなってきた気がしている。理解され受け入れられつつあるということは、元々はあったけれど訳あって抑圧されて来た、けれど仏性にように誰でもが生まれつき持っていると言っても過言ではないとより強く思えて来た。
海外でも国内でも旧市街の方が興味深く、再開発や新しい街は高層ビル群ばかりが目立ち個性が乏しくなっている。羽田空港や成田空港は一見インフラの勝利に見えて、そのシステムのコンセプト、人間性が決め手になり際立っているのではないか。自然や古都、固有の文化、伝統が残っていることでも日本は観光地として際立っている。最新テクノロジーと伝統文化の幅、スケールの大きさは日本自体が「多様体」であり、その結果現在も「多様性」に満ち溢れているという結果を招いている。それぞれの分野で進化という上書きはあれど「多様体」の要素として残り続けている。
個人の在り方と国家が「多様体」として連動している。そういうことが明らかになって来ているのか、北欧のある国で日本人モデルの教育が実践されようとしているという情報も入って来る。移民で失敗した教訓?社会秩序保全の目的で日本人にどの程度近づくのかは未知数だろうけど。
「多様体」の提唱者ドゥルーズも西洋的アイデンティティを壊せば欧米の人間が元々「多様体」であるという特質に回帰すると考えていたのだと思っている。
現状「多様体」も「ニュートラル」も日本人が際立っているけれども根はそれ程の差が決定的にある訳ではない(地続きである)と考えている。世界に必要なこと、世界が渇望していること、急成長の一途を辿る観光立国の日本に求められているのは(最高学府の)大学に「日本哲学科」さえないところの先進の、異次元の民度を支えている「不立文字」の日本哲学なのだろうと。
12/31/2023





ニュートラル42
箱根駅伝の実況中継を観ていた。メインの解説者は瀬古利彦。移動車は渡辺康幸、両者とも箱根で伝説的走りをした早稲田の名ランナーだ。箱根駅伝の顔、中大OBの臼井さんが引退してから何年になるのだろう。レースを、そして選手たちを公平に評価し語れる、しかも愛情を持って、で傑出している渡辺康幸さんはニュートラル(公平)で際立っている。淡々とした喋りはブレがない。冷静であり素っ気ない感触だが、前半から飛ばす自身の熱い走りからの熱情というものも伝わって来る。この両者はトラックよりロードのランナーだったという駅伝の申し子でもあった。アナウンサー、特に中継のアナウンサーが興奮しすぎている(喧しい)ので、解説者は感情を抑えニュートラルの立場がバランスを取る意味でも必須になってくるのだろう。
画面を観ている駅伝ファンの立場では、母校がシード権を争っている位置がレース全体を楽しめるポジションと云える。何故なら優勝争いでは相手校のブレーキや転けることを望むという根性の悪さが露骨に出て己れの人間性さえ疑われてくるからだ(トリノ冬季五輪女子フィギュアで、ロシア選手転んで喜んでしまったと口を滑らした自民党の小坂文部科学大臣もいた)。我欲がつい出てしまうからだろう(ニュートラルの喪失)。瀬古利彦も十数年前は母校の早稲田贔屓が酷く「瀬古い」と云われていたのを思い出す。最近は贔屓が現れなくなっている。ニュートラルに近づいている。「2016年11月より、日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダー(理事兼任)に就任」(Wiki)この全体を公平に見るという立場もいい方向に向かわせたのだろう。
日本より海外の審判のホーム贔屓が露骨なのはニュートラルを「多様体」の一要素として明確に持っていないという国民性に根ざしているのではないか。
中韓両国民の日本への偏向発言(ヘイト)にはその国民性において未来が暗かろうと思わざるを得ない。自国をさしおいて日本を誉める海外の旅行者には公平というニュートラルがある程度備わっていることになる。あるいはその方向に進んでいる。その日本の世界での高い評価をパスポート偽造で日本人になりすまし享受しようという中国人(韓国人)の欺瞞には救いようのない暗黒が見え隠れする。公平な立場が必須の知性とは無縁の国民性だと言え、ノーベル賞の受賞者数から自然科学でもその欺瞞・偏向は取れないらしい(向いていないらしい)。他国の特に日本の技術力の密輸入や産業スパイ、人的スカウトに安易に頼っていたりする。自ら未来を潰していると云えるのだ。
観光において日本贔屓がニュートラル(公平性)への入り口なのだとしたら、日本の一番の土産(成果)はそれなのかもしれないと思った。
1/5/2024





ニュートラル43
左翼の中立性(ニュートラル)の欠如は言うまでもないだろう。明らかに日本的感性を排除しないと成り立たない考え方、あるいは生き方だろう。と言いつつ、私生活までは立ち入っては居ない。まともな人もいればそうでない人もいる。まともな人は辛うじて「多様体」を保っているということだ。
さてサヨクの対極のように日本の「神道」は密かに(無意識的に)日本人の根に君臨し支えている。教義も本尊もほぼ見当たらない、その曖昧模糊とした風体が特徴であり、宗教でありつつも宗教を超えて(逸脱)しまっていると云えるのだろう。キリスト、イスラム、そして仏教とも違う、恐らく次元というものが。出発点はアミニズムであるとしても進展は異次元に思える。例えれば明確なギアとニュートラルの隔たりというものかも知れない。「何処にでも神は見出せる」「誰でも神になれる」可能性がある。「仏性」と同様だが、仏教のように意識して成ろうとはしない。神道側の修験道は修行の為の修行、修行が目的の修行に思え、最終目的のない修行。仏教でも究極の修行はそこに行き着くのだろうが……。教義も本尊もある仏教徒へは修行(修験道)のところでの同律性・親和性もある。が違いもあり、補える関係といった方が良いのだろう。ギア(チェンジ)とニュートラルが互いに必要不可欠の如くに。卵と鶏ではないが、ギアがあってニュートラルが作られたのではなく(ギアによって確かに言語化され明確に意識されるようにはなった)、ギアが無かった時代からニュートラルは存在し、鶏は居なかったが他の生物の卵が存在したかの如くにあったのだと思える。神道の曖昧さ(モラトリアム)は(まだ何者でもない)卵としてのニュートラルだったかも知れない。ニュートラルに入れられたギア(実はギアが外れたギア)は外部の力、牽引なども受け入れ、自動車本来の意味(自力本願)を喪失し引っ張られてゆく(他力本願)。駐車違反車がレッカー車で移動させられるように。受け身の極地(他力)とも云える。エンジンを切られ、サイドブレーキを引いた駐車中のマニュアル車は必ずしもギアをニュートラルに入れているかは不明だが、意味的には自力を止めたニュートラルと言えるだろうから。大乗仏教の絶対他力は日本では神道へのニュートラルへの歩み寄りとも考えられそうなのだが、大乗発祥のインドでどうだったかは歴史的な検証が必要だろう。教団の維持・発展や、大乗であっても布教行為自体は本人の意思、自力本願が強く出てしまうという矛盾も抱えている。教団では布教が最大の功徳(教徒の利益、出世への欲望)になってしまっているからだ。また絶対他力であっても成仏や浄土への転生を願っている。「成る」ことを捨てては居ない。
「成仏」を「なること」として「生成変化」(ドゥルーズ=ガタリ)との同一性と差異性を言及しないフランス現代哲学の徒の不思議さには視線の一方通行という不文律さえ感じる。サヨクの中立性(ニュートラル)のなさはここにも現れているのだろうか。日本に興味のない日本人的ではない人たちと言った方が適切か。
1/11/2024
神道には宗教的な行為(参拝など)はあるが明確なギア(布教に必要な教義、本尊)は見あたらない。布教に対する欲望が薄いところも特徴で、布教が中心のカルトに対してはより清浄感が漂う。山岳信仰などはむしろ観たままという二律背反なところも特徴的だ。ギアを入れるという意思も薄く、山はそこに最初からあるのだ。と思えば実在した人間が祀られたりしている。日本人に良く知られている天神様菅原道真公、東照神君徳川家康がその筆頭だろう。ただ生前に意識して成ろうとする人は居ないだろう。人事と自然が区別されているというより、人間も山のように大きくなれば信仰されるといった方が良い。野球の神様(川上哲治)や「神様、仏様、稲尾様」は知られているが、「村神様」は大谷翔平の影に隠れて消え入りそうだ。次元(リーグ)が違っては仕方がない。一時カリスマという形容で美容師などが持て囃されたが元から嘘っぽかった。神技を発揮する職人(名人)たちも弟子やその他一部で信仰されるけれど「憧れる」存在であって「神様」とは別種なのではないか。左甚五郎も。不動明王や摩利支天、八幡大菩薩の武運を引き寄せる神様への信仰、そして実在の「軍神」(広瀬中尉)は居たけれど一般人の信仰にまでは至ってはいない。平和ボケが原因かも知れないのだが(恐らく不動明王を軍神として見る庶民はほとんど居ない)。
新しい傾向では架空の英雄への信仰も始まっているのかも知れない。アニメの聖地巡礼は所縁の土地であって信仰対象そのものではないかも知れないが予備軍にはなっているだろう。ルパン3世は鼠小僧次郎吉ほど著名になれるのか。そんな事を考えていられること自体が神道の仏教以上の柔軟性と考えられる。新しい仏様は今後創造されることはないだろうが、新しい神様の創造はこれからも有望である。何故ならニュートラルは卵でもあるからだ。
1/13/2024





ニュートラル44
「多様体」の土台としてあり、自身も「多様体」でもある「平滑空間」。ニュートラルと常に比べられる存在として頭にこびり付いている。もしかしてニュートラルと同義語、と思うこともしばしばある。ニュートラルは土台というよりも媒介、中間を占めている。が両方とも前面に出てくれば多様体の一要素、自身も入れ子の「多様体」であるという構造は類似している。名称が違うということは差異が何処かにあるということでもあり、今のところその辺は放置していてもいいと思っている。村上隆のように平滑空間(スーパーフラット)を前面に出して(コンセプトとして公言して)作品化する方法もあるが平滑空間は土台やバックグラウンドでより活動しているもので村上とて直接スーパーフラットを描くのではなくスーパーフラットを利用して世俗にあるサブカルチャーのフィギュアを作品に活用しているに過ぎない(ボーダーレスという意味合いが強い)。スーパーフラットに乗っているものを造形化してスーパーフラットを意識化すると言い換えられる。暗示しているのだ。言葉によって誤解されないようにしている。姿を見せない主役。世俗を芸術に高めるためにか、オブジェクトに箔を付ける為か、言語を加え説明しないと作品にならないのか、直接描き難いオブジェクトこそ描かねばならないのが芸術ではないのか、疑問は残るのであるが……。
「平滑空間」は氷原や大海、草原としてドゥルーズ=ガタリによって記述され可視化されているが「ニュートラル」は視覚化が不能かも知れない。
1/15/2024
空を飛ぶ飛行機や他の飛行物体も平滑空間を利用しているが、海の排他的経済水域と同様に区分がなされ、羽田の事故からも分かるように鳥のようには自由がない。果てはあれど見えないとも云える無限(夢幻)に広い宇宙空間は人智を超えている。宇宙が平滑空間ならばその上で生きている生物、鉱物は無条件で多様体になってもおかしくは無いのだがいかがなものか。実際にそうなっているように思う。
ニュートラルは物としてイメージ出来ないのなら「空性」に近いのかも知れない。
「差異」は認識そのものと言っても良く、認識も差異があって初めて成されるのだろうから一歩進めると差異は比べられるという認識自体の条件に付随していることになる。2つ以上の物が無ければ存在し得ないし、無ければ一様であれば差異は消える。同じ物しかない場所では間に空間があっても差異はない。が、本のページの右と左で左右の違いを解説している国語辞書もあり、平滑空間は元々差異のある連結を可能にする条件として措定されていた(本という平滑空間は文字だけでなく左右を連結する)。横断的結合、ボーダレスでサブカルと芸術を結合させたのが村上隆ということになる。平滑空間が芸術的価値を創造させた。
空性のようなニュートラルの表現は可能であるのか……。誰でもない自分として気の抜けたような表情は終戦後の日本人を象徴するのだろう。海外から言われていた一見表情の乏しい日本人は通勤通学時に良く現れていると思う。公共交通機関での静かさを外国人は絶賛するのであるが秩序があって活気のない平穏さは失われた30年を象徴していて、三島由紀夫の予言に近い光景なのかも知れない。一方で静寂は文化の成熟度・民度を表していると言われる。が平穏さは一見であって我に帰れば迅速に適切に動けるのも日本人の特徴だろう。日本人全体で平均すれば日本人の主流はネコ型と云えるのかも知れない。眠っている猫の幸せそうな佇まい(無心に好物を食べる愛らしい姿)、その感情はニュートラルへの親近感を象徴しているのに違いないと思っている。
1/17/2024





ニュートラル45
PCには広告を表示させないアプリが作動しているのでYoutubeを観ていてもCFがなく不快になることはない。がコンテンツで不快に感じることは連続再生にしている時に生じる。ほぼ同じようなジャンルで似ているコンテンツがランダムに再生され続けるのであるが、その中にTV番組、番組のコーナーを集めたものが混じるようになった。それも一時間とか二時間とかの長さで如何にも視聴者の要望に応え提供していますというスタンスの観たくない、退屈な騒がしいプログラムが延々と続いて行くのである。個人やサードパーティが制作する音声は大抵がPCのソフトウエアで合成されたものだ。TV局の方は勿論プロのアナウンサーやタレントのレポートだが、彼、彼女らはアウトプットの仕事での読み上げや報告を上手くこなしているだけの感が強い。つまり企画発案段階をスルーしてきた人たちの受け身仕事に過ぎない表出は、音声合成の語るリアルな生の主張に敵わないのである。不思議だが合成音の方が心に訴えかけてくる。ハートに響いてくる。肉声だからアナウンサーが勝る筈だという先入観はここでは破られている。淡々とゆっくり喋る合成音だが、これが言いたい言わねばならない、その熱い思いがプロの上手いしゃべりを凌いでいるのだ。
女子アナブームは既に終わっている。女子アナらしい反応は紋切り型で飽きられている。訓練で教えられたものが滑らかな喋りだとしても嘘っぽく感じられるのだ。その不満の間隙を縫ってかアイドルや元アイドルたちが無垢の新鮮な反応や受け応えをしつつ、アドリブに才能を示せる素人たちが(概ね元アイドルたちが)タレントの卵としてつけ入る隙を謂わばオワコンの女子アナたちが与えているという現状が成り立っている。Youtuberの間に無理矢理滑り込もうというTV局のウザさは、NHKがネットに参入しようとしている図式と重なる。公共や民放のTV局よ、いい加減に成仏してください。ゾンビの如く生き残ろうとはしないでくれ。ひと言でいうとウザいし女々しいし目障りなのだ。岸田総理も。ゾンビに美徳があるのだとしたら自ら潔く退くこと。成仏する以外にない。合成音声に劣るコンテンツしか発しない者たちよ、目覚めよ。自らに引導を。
猫の飲食は微笑ましく見ていられる優良コンテンツだ。stray というゲームはその猫が主人公の昨年注目されたフランスの小さな会社が作ったもの。初手からダンジョン(地下の迷路)よりは深くないが、地下に落ちてしまうところからゲームが始まる。が、不祥わたくしは最初のステージから抜け出てはいない。腕が劣るからだが、遊びで疲れることはしたくないという凡そゲームには不適合のポリシーで生きているので、疲労を感じてしまったら粘らずに放置、は致し方ないのだ。それはともかくとして猫ではないが、外国人観光客が初めて日本の高級料理店で食する日本料理への反応は予想以上に好意的で驚く。日本人タレントが騒がしくわざとらしく食べるグルメ番組の詰まらなさには無い新鮮な反応が楽しめる。その種の料理が初めてで本当にその味を味わえているのだろうかと疑念が残るのだが、制作側の奢り故に過剰反応、サービスしているのかと疑ってしまうのだが、日本に来る外国人は本国の日本料理店(大抵は中韓のニセ日本料理店)で不味い擬きの味を知っているので、それに対して本場の味との遭遇は驚異の美味しさに感じられても不思議ではない。そう納得していても出汁の美味さに感動の声をあげている場面には驚かされる。あの繊細で微妙で奥深い出汁の味まで分かってしまうのか……。出汁汁の素晴らしさもバレてしまっているのか……我々日本人が想像している以上にユネスコ登録の影響もあってか、和食は一人歩きし世界展開している。アニメ漫画もそうだ。「北斗の拳」がイタリアでバイブル化していても不思議ではない段階に達している。日本ではどちらかと言うと限定的なファン層を持つ「バギ」が海外のNetflixの上位にランクインとか、果てはアメリカ人からは暗いと言われ続けていた日本映画も注目され始めている。ハリウッドの紋切り型結末(ハッピーエンド)へのカウンターの意味合いもあるかも知れないが、曖昧不明のまま終える傾向の日本映画が受け入れられて来ているとは……。余韻を噛み締めることが理解されようとしているとは。。。
最近では一万六千年前頃からの縄文時代も再評価され、四大文明より以前に四大文明に匹敵する文明があったという研究も進んでいる。神武より前の時代も書き換えられるのか興味深い、が、その縄文時代は文字を持っていないらしく再現は難しいのかも知れない。文字が要らないくらいコミュニケーションが狭く緊密だったというのだ。文明が長く続けば腐敗で消え去ることもあろうし、反対に成熟しきっているとも考えられる。現代日本の静寂の民度もそういう意味では納得出来ようか。
1/19/2024





ニュートラル46
政治家や政治評論家の立場は粗方鮮明になっており妥協の余地はほぼ無い。その他の文化人・知識人はイデオロギー以外では評価されることもある。しかし哲学者の無理解や世間知らずはもろに評価を下げるだろう。小説家は反体制、例えば平野啓一郎は安倍派パーティ券裏金疑惑を全て安倍元総理の責任に帰しているが、それと小説の質は別物に考えられ、評価も作者の言動を離れてなされることが可能ではある。文化人風でそのジャンルに分けられる、逆張りで面白おかしく、論破されてもめげずに発言し続ける文化人擬きは芸人に分類されるべきだろう。ワイドショーの大抵のコメンテーターはTV芸人と云っても良い。インテリという言葉自体が消え去ろうとしている。クイズ番組のキャプション以外すでに使われなくなっている。学歴より「地頭の良さ」が幅を利かせているのが昨今だ。その中身もまた怪しいものだ。高卒・中卒の学歴無縁の芸人がMCで活躍していると地頭を称賛されるという構図。
昨今の芸能界の話題はその地頭が良い?筈の松本人志、彼の不運はあろうことか素人(女性)が好みだったことに尽きるのではないか。素人とは言い換えれば「ニュートラル」な女性と云える。無垢・純粋・清純。美女と野獣の外見ではないが松本と「ニュートラル」はTV画像的に似合わない。バランスが取れない。無理が生じる。「居場所」(元吉本興業のトップ、大崎洋著)を積読のままにして来た身としては今後読む気が薄れるという効果があった。松本との絡みが本書のメインのように書かれているらしいので……
松本の芸がどうなのか?評価する以前に面白さが理解できず自発的には見ていない。ついでに見たことはたまにはあった。ただ例えお笑い芸(人)でも洗練されねば後世に残らないだろうと思っている。まず風貌の見てくれが洗練を遠ざけるだろう。アメリカやその他の国のスポーツ選手の髭面の醜い風貌(髭面でも汚さを感じない手入れの仕方もあるが)にも閉口している身としては尚更。
蛇足で言えば、大木こだま・ひびきのこだまのドスの効いた恫喝漫才には洗練された芸を感じている。
山口敬之氏の裁判との類似を指摘する人も現れている。合意という争点だ。が、あの相手は正にプロであって松本とは逆の立場になっているのではないか。その手のプロに素人が騙されるという構図は確かに似ているのであるが、男女が逆転している。
権力は従う者がいてはじめて行使される。元々小澤という美人局も何となく顔がうす汚れている芸人のトップクラスだと思っていた。類は友を呼び、素人好みという指南書が暴露され、純粋(ニュートラル)は対極の人をも惹きつけるらしい。いや対極であるから無いものねだり故に異常に執着してしまうのだろう。ドルオタも似たようなものだが、ルールに則って商取引して生き伸びている。色々言われているけれど節度は何とか保っていると云える。ドルオタからの卒業、それは「ニュートラル」が外見やうわべの言動ではなく、違った、むしろ奥深い中心付近にこそ潜んでいるであろうと気づくところから始まるように思える。
素人から純粋は見つけやすいだろうが、プロからそれを見出すのは根気も手筈も必要になって来る。芸能人同士では破局を繰り返し、その反省で海千山千では無い一夜の素人との、お膳立てする後輩芸人を利用した人間関係しか築けないタイプ(人間の深さを追求しない)に後退したのか松本人志は。芸人も落ち目になると偉そうなことを言いたくなる法則は生きていて、松本はそのTV芸人(経験豊富なご意見番)という船着場からも追放されようとしている。地頭云々以前の問題だろう。
大谷翔平はプロが認めるプロ中の別次元のプロ野球選手、ユニコーンだが、純粋(ニュートラル)さも表現し得ている稀な存在だ。その人間性でCM収入が殺到している現状は知れ渡っているところだろう。つまりアイドル性抜群のプロ選手ということだ。ベーブルースの(無垢の幼児の)風貌と同じように。
1/20/2024





ニュートラル47
HIMARI (本名 吉村妃鞠)という天才バイオリニストが注目されている。おん年12歳。一聴すればその天才ぶりが身に沁みて分かる演奏の出来栄えだ。コンクールは内外39に参加して全て一位。海外のコンクールで演奏を見詰める審査員の表情が特に雄弁でYoutubeにアップされている。プロが未だ素人同然の子供の演奏に驚き聴き入っている構図はバイオリン演奏に詳しくない者の心をも揺さぶる。この審査員たちはリアクション芸人以上ではないか……。子供なのでニュートラルな、純真無垢な表現にも打たれているようである。テクニックも相当なレベルであろうことは分かるのであるが、プラスその見た目、音の純粋さに心を鷲掴みされているのだ。アメリカの大学相当の音楽院に最年少で入学、日本とアメリカを行き来し活動している。天才ならむしろエリート教育を避けて一般人に混ざっての経験が将来生きるのではないかと思ってしまうのであるが、老婆心なのか。
既に天才子役の如き活躍だが、子役同様に大人になって目立たなくなったとしても実績は既に確固たるものになっている。これからどう進展し、期待されるのか、注目の演奏家であることに変わりはない。
類稀れな才能でユニコーンと呼ばれる大谷翔平のパワーは、高校時代の細さを知っていれば明らかに後天的に練習で会得したものだ。ホームラン王は努力の割合も大きいことになろうか。メジャーリーグでは打率・打点を凌いで価値のあるタイトルになっている。細マッチョのイチローも鍛え方によっては飛距離が格段に飛躍したのかどうか、バッティング練習ではホームランダービーに出られるくらいと言われていたが、本人がヒット狙いだったので不明に終わった。ミートの巧みさは打率に如実に表れ、才能がものを言うのであろうからイチローはより天分の賜物と云えるのかも知れない。
本人も周りも気付かず発揮されなかった生まれつきの才能は数知れず存在し潜在の状態のまま忘れ去られてゆくのだろう。文芸など特に意識して才能を開花させないという驚くべき使われ方もあるのではないかと思ってしまう。寸止めの様に楽なまま、努力をしないで才能の僅かな部分の表出で満足してしまう。全体がそういう状況であればそれでもトップクラスに昇っていられるのも一因なのだろうが……。
メジャーリーグ挑戦は松井秀喜のケースの様に長距離から中距離ヒッターにランクを下げたとしても潔い態度に変わりはない。WBCの優勝もあって日本プロ野球のアメリカでの評価が上がり過ぎた感があるが、メジャー、日本、そしてメジャー復帰の選手の活躍によっても日本野球の価値は上がっている。日本野球よりもフィジカルの鍛え方がメジャーでは必須なのだが、身長は致し方なく吉田正尚のマッチョを見れば不可欠とわかって来るだろう。
ただし山本由伸投手はウェイトトレーニングはやらないそうだ。やり投げの練習はする。まだメジャーでの実績はないが、成績次第では彼の方こそ天才(天賦の投手)と呼ぶべきかも知れない。
音楽、スポーツ。では芸術はどうか。デッサンの写実の追求は無個性の助長と批判の対象にもされて来た。将棋のAIとは別な意味で絵描きは写真と競うのだろうか。あるいは昨今のAIとも。池田瑛紗(てれさ 「小峠英二のなんて美だ!」東京MXレギュラー)はアイドル活動中に密かに準備し(同僚のメンバーでさえ受験は諦めたと思っていた)芸大を昨年3回目で合格した。デザイン科(油画科の次に難関と言われる)の合格報告ブログでの画像はデッサン画とともに写っている(下記の画像)。試験の課題で提出されたものか不明だが、絵が上手いだけではない表現を持っているのが分かる。石膏のモデルになったであろう人物までを見透して描いていると思われるからだ。石膏の質感をそのまま描くものは数多く見られるが、生きている人間を感じさせるデッサンは珍しい。深読みしたからそういう表現になったというより、反対にアイドル活動で要求される無垢の感じ、つまりニュートラルの眼・感覚がプラスされ合格出来たのではないかと思っているのであるが少数派の解釈かも知れない。逸脱しない範囲で、デッサンとしてそれを実現しているところが非凡なのだろう。
天才、あるいは才能一般でもニュートラルは脇役かも知れないがパートナーとして寄り添っている要素であろうと思っている。
1/20/2024





ニュートラル48
「第73回 NHK杯テレビ将棋トーナメント 3回戦7局」の放送(1/21)に藤井聡太NHK杯(八冠 21歳 通算タイトル19期)が対戦するので観てみた。相手は久保利明九段(48歳 棋王3期、王将4期獲得)実力者である。NHK杯は昨年も一度準決勝だったかを観ていた。棋風が詰まらなく思えたので確かめたかったのだ。AIと普段から対戦していると機械的になり詰まらない棋風になってしまうのか知りたかった。今回は駒組み前半15分程眠ってしまい中盤から終盤を観戦した。抜群かどうかは分からないが面白かった。やや安心したのだった。羽生マジック(羽生善治 53歳 十九世名人 タイトル99期)はまだ人と人との対戦という人間味溢れる?対決から成り立っていて、しかも役者も揃っていた。大山康晴(十五世名人 80期)、加藤一二三(84歳 8期 「神武以来の天才」「1分将棋の神様」)、中原誠(76歳 十六世名人64期)、谷川浩司(61歳 十七世名人 27期)という一世を風靡した大棋士をはじめ、佐藤康光(54歳 13期)、森内俊之(53歳 12期)という強力なライバルが同世代に居た。藤井聡太八冠には同世代も前後も見当たらないのである。八冠独占で明らかな様に他の世代にも居ないと言っても良い。一強というわけだ。羽生さんの急激な弱体化に助けられ、羽生以後を担う筈だった強い渡辺明(39歳 31期)もタイトルをもぎ取られてしまった。
横綱相撲とは序盤は相手に相撲を取らせて、楽に捌き、相手が疲れたところで仕留めるというものだった。大鵬幸喜や貴乃花光司がその取り組み方だった。将棋も大山康晴や中原誠も受け将棋で始められ、受けきってから駒得を生かし後半手堅く攻め勝ち切る棋風だった。羽生善治の「羽生マジック」は、紋切り型(定石)の将棋の逸脱、つまり不利な形勢になってから驚異的な差し筋で優勢に転じる、そういう意味でマジックと言われた。観ていて何が飛び出すのかワクワクさせてくれた。勝負の世界に勝ち負け以上のエンターテイメントを導入した先駆者?となり、その一回性(偶然性)が面白かったのである。
当時は「光速の寄せ」(谷川浩司)や「泥沼流」「さわやか流」(米長邦雄19期)と云った形容詞が付けられる風習があった。人間臭さも漂って居た命名だろう。渡辺明九段は「居飛車党」(居飛車穴熊)と言われ、個性的な流派から一般的な党派に形容詞も変わった。
PC将棋台頭に合わせて無機的な形容に変わったのだろうか。
最年少が騒がれる、最年少くらいしか話題のない文壇(芥川賞)のように将棋の世界も後退してしまったのか。藤井八冠からは強さしか伝わって来ない。あるいは何を食べたとか?そういう瑣末な話題だ。囲碁も将棋も二世の台頭が話題に昇っている。早熟であって当たり前の世界、小学生名人がそのままプロで活躍する。大器晩成の起こり得ない、遊びであってプロも存在する。いまだに藤井聡太八冠の良さが分からない、我が貧弱な棋力なのだった。
羽生善治の脳波は僧侶の瞑想時に類似していたというニュートラルの状態を彷彿とさせる話題に満ちていたのは前にも書いた通り。PC将棋で将棋界が危機意識を持ち始めた頃から将棋番組を観なくなってしまったのは棋士に別次元のライバルが参入してきて人間性まですり減ってしまったからなのか、その辺は良く分からない。
2016年〜2017年、竜王戦前の渡辺明竜王と三浦弘行九段との前哨戦で三浦九段がスマートフォンから将棋ソフトを使った疑惑が持ち上げり、竜王戦の挑戦者を降ろされ処分(謹慎)されたという一連の騒動。のちに処分は撤回され、将棋連盟の会長谷川浩司はじめ理事も何名か辞した。この不可解な経過を辿った将棋界はその後もPC将棋の圧力やIT時代の流れに巻き込まれ、棋士同士も疑心暗鬼なのか、人気挽回の切り札に藤井聡太の快進撃は渡りに船だったし、適任だった状況が確かにあったのだ。時代に要求される棋士だった。コンピューター(64Core 128thread のCPU)に鍛えられコンピューターを凌ぐ棋力に違いない棋士の誕生に、プロ棋士とコンピューター将棋の対決も和解への道を進み始めたきらいがあった。紆余曲折、漸く人間とPC(将棋)は共存の段階に入って行ったのだろう。
さて文壇は作家の作品を凌ぐAI小説の出現、紆余曲折を経て共存まで進みAIを凌駕する小説家を生み出せるのだろうか。甚だ疑問だが、パーティ券で低迷する政界にこそ公正(ニュートラル)を崩さぬAI(政治家アプリ)が待たれるのだろう。
NHK杯将棋の画面には左上部に先手後手のバーグラフによるPC判断の優勢の度合が見てとれる。パーセントで誰にでも分かり、次の一手の候補が3手3種並ぶ。解説者も楽になったかどうか。ここではその優勢が不明の状態、五分五分の膠着状態、中立的なのがニュートラルではないかと思えてきたのだ。何億手先(6億)を読むPCでも優劣が曖昧であり続けるところに、両者の実力が拮抗するところにニュートラルが発生するのではないかと思う。先が見えていない場所。相撲のガップリ四つ。祭りで揉み合っている(睨み合っている)情況。鉄棒の棒上で倒立、一瞬止まって見える刹那。100m競走で差がつかず横一線で進行してゆく場面。マラソンの動きのない、順位変動の起こらない集団走。野球の投手戦……。
1/24/2024






ニュートラル49
Google検索上位の広告の羅列。Youtubeに挿入されるCFの民放TV局以上の頻度、その過剰さからGoogleの初期が持っていた知性、高学歴といったエグゼクティブの華やかさや余裕が薄れ、欲望が表面を覆いつつある。洗練を放棄するとは経営陣が入れ替わったか、Appleと利益率で競おうというのか、Appleには残っている高級感もGoogleでは最早喪失状態。ブランディングも見当たらなくなれば並の大会社に生成変化を遂げてしまった様でもある。憧れの企業、エリート学生の入りたがる狭き門で独走状態だった先駆者の面影は今や感じられなくなった。生成AIで巻き返してもGoogle、Youtubeという身近なインターフェイスで以前に戻らぬ限りイメージ回復はないだろう。ガメツイ集金システム、企業利益優先の恥を知らない並以下へ疾走する巨大企業が今のGoogle LLC(現在はAlphabetの子会社)を象徴している。
Facebookの偏向、下品な振る舞いももう見飽きた光景、通常運転になりつつある。未来社会、世界をリードしてゆく気概を持ち得る企業の候補にも入らぬような状態が現状だろう。同業他社にチャンスを与えている状況だが、追随するようなシステムが現れていない故にか、未だに萎んではいない。巨体が横たわっている。
三島由紀夫が展望した日本社会「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国」とは日本の自滅で達成されるのでは無く、よくよく観てみればGAFAのことを指しているのではないか、とさえ思ってしまったのだ。Amazonの中国企業のマーケットプレイス参入は巨大企業の品格を一気に覆してしまったし、Appleの製品に特に不満はないが、性能的にはさして高級でもない製品を高級品に見せるペテン的マジックな体質は拭えないところだろう。ただ禅の精神を受け継いでいたジョブスのシンプルなフォルムを持つデザインには西洋にないテイストが感じられる。素材を活かす和食ブームにも通じているのではないかとさえ思われる。海外旅行者に大人気の金閣寺にも金の煌びやかさの中に一色の素朴さはあるのだろうが過渡的だろう。銀閣寺とか苔寺にも目が向くようになったら本物か。
ニュートラルは商売とは本来かけ離れているものだろう。思想とも離れている筈であるが、多様体なのでどちらへも転がる。三島由紀夫の指摘の中で唯一カタカナの「ニュートラル」は多少であっても並列の中で異質なものだろうと思える。
ここで「ニュートラル」を別の視野から眺めてみると世界のグローバル化(特徴のないのっぺりした世界)に寄与している構図が浮かび上がってはくる。GAFAにM(Microsoft)を加えるとより分かりやすい。GAFAM。ドゥルーズ=ガタリの平滑空間(スーパーフラット)自体が「多様体」と言いつつそれだけでは草原、氷原など一様な風景に見えてくるのだが、その上に「多様体」が乗って初めて平滑空間は生かされる。「ニュートラル」も同様にギアが無ければフニャフニャの状態だろう。グローバル化は概ねアメリカや中国?が目指す、大国の経済システムの世界化と言え変えられる。個々の国の特徴は地ならしされ、のっぺりした世界に変容して行く筈だが、抵抗もあり実際には永久に無理だろう。程度の差の問題なのだが傾向は徐々にそんな感じを多くの人も受け取っている。第一波として町の小さな本屋が世界的大企業Amazonと直に競走せねばならない状況が押し寄せて来た。日本の小売大手(デパート、スーパーマーケット、コンビニ)もAmazonと競っているから個人商店だけではない。コンビニは萬屋という伝統があったから健闘しているようだが、かようにニュートラルは戦国時代のようなパラダイムの変換を柔軟に下支えしたとも考えられ、下地なのでGAFAMが持してくれたものではなくその国に元々あったものだ。黒船の来襲を受け入れたのも日本固有のニュートラルがあったからだろう。グローバル化が先陣として送り込んできたわけでは無い。日本の大小の書店にAmazonが入って来れたのも隙をついてのことだった。圧倒的な蔵書量と迅速な流通によって。隙間であった日本的ニュートラルの質量もグローバル化によって一定の範囲で変容されたのだと思う。平滑空間は何が乗っかっても然程の変化は見られないのだが、ニュートラルは乗るもので微妙に変化し違ってくる。と同時に変化しないものもある。二層構造、二分というよりグローバル化した方は暫定的で定着するかはまだ不明、そういう柔軟な部分があるのも特徴である。割りと容易く海外からの新しいものを受け入れるのが日本のニュートラルの特質だ。が、核心までの変化は実に今まで無かったのではないかと考えられる。それもまた日本「多様体」らしい。状況は海外の圧力に屈したように見えて、横綱相撲のように最初は相手の力を受けて吸収し、後にひっくり返したりする。黒船と日露戦争。第二次世界大戦とのちの経済復興の快進撃。ニュートラルは受けに発揮、吸収し、反撃に繋ぐ。前半も後半も先頭集団に只管着いて行く瀬古利彦選手の走りは一見セコイものに見えて、常に誰かの飛び出しに備え緊張を維持しなければならない。その緊張を緩和するのがニュートラルという柔軟性なのだろう。柔道が受け身から練習するのも、護身術の合気道も横綱相撲の例えに通じている。「柔よく剛を制す」。合気や場の空気の「気」をニュートラルの一要素に加えて良いのかも知れない。決して上から目線ではなく。
2024/01/28





ニュートラル50
Youtube を観ていると日本の行く末は経済大国へ、というより経済指標は二の次にして最新のインフラとその運営、日本人の人間性、和食、伝統文化、治安、人種差別をしない、などを優先せよというメッセージも言外に感じられる。国同士の外交より個々人の触れ合い、おもてなし、誰にでも親切といったように。しかもそれが先進国の証しの最優先事項として。海外の親日家の注目もそのようなところにある。現在の日本の政治(政治家)が好きで日本に観光に来る外国人は皆無だろう。歴史上なら稀にあるだろうが……
国内外の政治はさして問わないというスタンス。どちらかというと弱点克服より長所を伸ばし海外にアピールして行くという保守?の姿勢。政治・外交に無関心で良いとは言っていないが傾向はそういうことになってしまう。進展の乏しい政治に見切りをつけ目をこちらに向けよう的な。裏読みすればサヨクを有利にする方向とも受け取れなくもない。いわゆるホメ殺しという戦略かも知れない。時々キャプションに悪意を感じることもある。初めは日本を貶めるような口上から途中180度それをひっくり返すのであるが、何となく前座の部分は要らない気もする。セレブが登場すると前半はその半生を出世物語で埋め、肝心の情報は15分の内のわずか数分に割り当てるというスカスカな内容だ。
スカスカ情報の氾濫はYoutubeに限ったことではない。ショップチャンネルと再放送がメインのBS、4KBS、よりかは保守情報はマシなことは未だに観続けていられることからも明らかだろう。
BSの主流コンテンツは有料であって民放の無料放送はカス、スカという現状。貧者向け時間潰しの電波の垂れ流し。CMが足腰の痛さや健康食品の類などに限られ?「高齢貧者放送」と名を変えた方が適っている。それでも観続けていると、こういうドラマはつまらない、というパターンが分かってくる。2時間ミステリーも氾濫して来ればストーリー、シチュエーションも似てくる。犯罪の動機も無理が生じる。まず番組欄で感情移入出来る主人公も必要になって来る。犯罪者、もしくは一般人より優れた魅力的な人間性でないと主人公は務まらないのだ。治安維持の権力(取り締まる地位、警察力)で逮捕(アクション)というより、人間力で圧倒し犯人を屈服させる展開が多いのだと気付く。深みのある役者でないと務まらない。主役は中高齢がほとんどになり、薄っぺらい若手の役者は育たないという悪循環に陥っている。若いうちは小劇団で力を付け、中年になって突如TV界に参入して来るケースが多くなった。スポーツ界でいうオールドルーキーだ。吉田羊のように女優も。
政治に戻れば、ニュートラルは中立であるけれども、モラトリアムでもある。中立は見方としては一日の長、優ってはいても、モラトリアム、決断力は不足している。「忠臣蔵〜決断の時」2003年1月2日。二代目中村吉右衛門主演、名作の誉れが高かった松竹とテレビ東京の新春ワイド時代劇だった。昼行燈(ニュートラル)という評判だった城代家老大石内蔵助がギアチェンジし迅速な討ち入りを敢行した。一部の隙もなく。ただ山科での目眩しではモラトリアム(ニュートラル)を存分に発揮していた。「多様体」として侍の精神、行動力は要素として強く保ち続けていたのだろう。武家の教育は子供から故に生きる。ニュートラルと決断力・行動力は両立する。忠臣蔵の本当の魅力はそこにあったのかも知れない。戦争放棄、サヨク的教科書、そういう態度を隠さない教師。上の世代はチャンバラで遊んだ記憶を持つだろうが、近年はゲームで頻繁に悪、敵と戦っている。その差はどう出るのか興味深い。
人間性で悪や敵を屈服させるという夢のような展開のミステリードラマ。これも平和ボケというのだろうか……いや憲法第9条よりもファンタジーで華やかで、洗練されたイマジンだろう。そして現実に効力のないことに気付きつつも結末として納得させられるエンディングなのだ。貧者のTVコンテンツ、あれこれ想いを巡らせれば面白い分析が可能なのだろう。その貧者のTVを観ている日本の高齢者たち、180度ひっくり返されて世界的に見れば民度の高い市民なのだそうだ。ドラマではない、しかしドラマの主人公のような形容ではないか。マジック。平和ボケならぬ本物のボケの始まりか?
2024/01/31





ニュートラル51
日本にとって「日本人」は最後の切り札であり、売るというと語弊が有るけれど、世界に誇れる輸出できる最終のシステムだろうと思っていた。観光立国によって輸出しようとする前に見つかってしまったといった段階にある、ちょっと早すぎやしないか、と。落ちぶれた挙句、最後に使う切り札として……。それとも既に落ちぶれている!?
2023年ア・リーグMVPという肩書きで大谷翔平選手は日本時間1月28日全米野球記者協会ニューヨーク支部の夕食会に出席し英語でスピーチした。自分に関わった全ての人々に感謝するという内容だった。大谷翔平は日本人輸出の先陣の役割を世界にアピールした初めての日本人なのではないか。イチロー、松井秀喜は米国内に留まっていたが、大谷翔平はリオネル・メッシ(21世紀最高のサッカー選手)を契約金で凌いでしまったことでそのニュースは世界中を駆け巡った。人間性も見逃されずに評価されている。その性格は日本人として突出しているかと言えば、そうでもなく典型的な日本人の考えと振る舞いが出来ている(に過ぎない)と思っている。日本人の良い面がすべて揃っている。つまりオールマイティーと呼ぶに相応しい。
正月、1月も終わろうとしているこの時期に初夢はボケの始まりかも知れないが、2度の満票MVPを獲得しても納得しないメディアの人間がいることは失言、謝罪というその繰り返しが未だに起こることからも分かるだろう。二刀流(two way player )を認めることは自動的に自己同一性から「多様体」へ人間観も移行するトバクチに当たる衝撃的な事件だからだ。多くの選手たちも「ユニコーン」という形容で大谷翔平は例外な選手としてメタレベルに持ってゆくことで思考の混乱を回避しているかのようである。イチローは天才打者で人間技で型がついたが大谷はアイデンティティの国民には人間(技)を超えた存在に見えるのかもしれない。そういう納得の仕方、ベーブルースと大谷翔平はアメリカ的人間の常識を超えているのだ。信仰対象・神話のレベルだと言い変えられる。地震の周期のように百年に1人出るか出ないかの選手となってしまった。前にも触れた覚えがある『寂しさの力』(2015年 新潮新書)という著書で中森明夫は酒井法子を評し、親戚をたらい回しにされた育ちを「場の空気」を読みそれに応え、気に入れられる振る舞いを身に付けたと分析した。アイドルの資質を明らかにした。「多様体」の養成期間、場の空気に合わせること。孤児院育ちのベーブルースもその要請に合わせるよう誘導されていたのではないか。しかし彼は反発し優等生にはなれなかった。酒井法子のようには成らず逆の反逆児になったといってよかった。二刀流は第一次世界大戦、独身者徴兵の時代、選手不足の空気で二刀流にさせられたが、反発しトレードで打者専門のヤンキースへ脱出してしまった。無頼(モラトリアム)を通り越しまさに無頼漢(レッドソックスの仇)となったのだった。養子を公言するアーロン・ジャッジも二刀流になれるチャンスは無きにしも非ずだったが暖かい家庭だったようで無頼にはなれずアイデンティティ(一刀流)を強く保っているようである。アイデンティティの国育ちで二刀流が可能なのはこの無頼派への脱出の道であろうと思うが、百年後を期待しよう。
アイデンティティの国で現在のように大谷翔平が認知されたとしても例外な溢れる才能のためということで即「多様体」が認められたことには成らないし、現状成ってはいない。それはせいぜい選手の「多様性」の承認、追認に纏められてしまうのだろう。
「多様性」の乏しかった白人至上主義の国、人的に均一に固まり停滞(バブル期の日本に抜かれかねない様相もあったり)、その突破の為に多様性の必要が叫ばれたシリコンバレー。「多様体」の国だった日本は既に「多様性」とはシンクロし自ずと育まれていて人種差別とはかけ離れていた。同調圧力は多様な暴走を食い止めるためだったとさえ思えるのだ(均一な製品を供給する為にも)。シリコンバレーのように力づく?で人工的に「多様性」を叫んでいるうちは自然な、心からの(人種差別のない)「多様性」は生み出されないだろう。事実1月25日に黒人メジャーリーガー第一号のジャッキー・ロビンソン銅像が盗まれ焼却されている。自らの中にもある程度の「多様体」の実現を目指さぬ限り人種差別根絶は無理なのではないか。言い過ぎかも知れないがそんな気がするのだ。
何気ない親切、困った人を迅速に助ける無意識の(無条件反射)行動、に喜びを感じる感性は「誰でもない自分」でいられる「ニュートラル」や「多様体」に起因しているのだと思っている。自己同一性を保ちつつそこまでの利他=個人主義を抑えることが可能なのか。「ニュートラル、多様体」を抜きに意識してそのように徳を積むことが可能なのか。それが欧米の市民の範疇に加えられるべきなのかどうか、恐らく誰も答えは出せぬのではないか。そうあるべき、なるべきというユートピア。日本人を見てそう思えるうちは可能性も残されてはいるのであるが。アイデンティティから「ニュートラル、多様体」への人間の変換には百年単位のスパンが最低必要なのは言うを待たないだろう。初夢はーー言わぬが花。知らぬが仏。触らぬ神に祟りなし。ーー
英訳を探すと
Better leave it unsaid.
blissful ignorance. 又は Ignorance is bliss.
Let sleeping dogs lie.
2024/02/01





ニュートラル52
情報は確かであろうが確認してないものであることを断っておく。それを原作とした映画は観ているのだが、アメリカのコミック本には成長物語が通常ないようなのだ。日本の人気長編漫画はほぼ子供時代からの成長が段階を踏んで描かれている。「スターウォーズ」も既に高校生くらいだった。
ドゥルーズ=ガタリの「多様体」は西洋のア・プリオリ、先天性という伝統、デカルトの良識の生まれ付きの考えが色濃く反映されているのだと思う。アクティブな「多様体」は数式 n-1 で表記されることが多い。天賦の才を引き出すということだ。n+1 も可能だが殆ど見かけなかった。日本は n+1 。経験で得られるのが伝統的な考えであり多く見られるだろう。それが成長物語にも反映されているのだと思う。主人公は大人になっても顔は子供のままであることも見受けられる(子供時代も要素として残り続ける)。星飛雄馬。
n+1 は『アンチ・オイディプス』の冒頭に描かれた(モノの)生産を表している。欲望する純粋な「多様体」の生産だ( n+1 はモノ多様体の特徴として登場する)。日本人が「ものづくり」に強いでているのは偶然ではない。日本型「多様体」は生産の過程を辿る。日本人自体もモノの生産と同様に作られて行くのである。成長物語は日本人の作られ方の軌跡でもあろう。物の「ものづくり」との共同、互いに反映しつつなされることだと考えられるのだが。例えば代表的な日本食の寿司と天麩羅の盛り付けられた様相は「多様体」を表現している。素材同士の横断的な結合で成り立つ寿司の配列。一つづつを拾い食べる過程 n-1 は「多様体」の蕩尽、消去の実践であろう(人間からすれば n+1,n+1…… )。一貫づつが要素となり、列挙され並べられた姿。まさに顕在化された「多様体」そのものだ。料理・食事はその生産・消費・生産の流れに乗る。寿司職人の店主の握る姿は「多様体」の生産過程。衣を付け熱した油に入れられた天麩羅の素材は適度に揚げられて盛り付けられる。しかも立体的に重ね合わさってアート作品が完成するような優雅なデザイン、目で先ず味わえるかのように置かれる。それぞれの料理に相応しい固有の器を持っており、それはニュートラルの役割だろう。寿司ではガリ(しょうが)が味に関してのギアでいうところのニュートラルになっていて、後味を消し、味覚をリフレッシュ(ニュートラル)する。天麩羅では大根おろしやレモンの類か。鍋料理では具の入っていない出汁の状態がニュートラルなのだろう。具を投入する事によって鍋汁は刻々と変化して行き、最終的には雑炊になったり、うどんを入れて別の汁の役割と味覚を提供する。ニュートラルも変化を遂げて行くのである。ニュートラル自体も「多様体」であるのはそういうことだろう。
そのような生産、「多様体」の出来上がる様に身近に日常的に接し続けながらという環境で初めて人間「多様体」も自ずと導かれてゆくのであろうと思われる。そのような文化全体の土壌もまた「多様体」や「ニュートラル」の生産には必須に思えるのだ。フランス料理は厨房で作られ完成品がテーブルに並べられてゆく。生産過程は隠されている。理性やアイデンティティや市民の伝統に支えられて来た欧米社会が寿司・天麩羅(和食)を日常生活で食べ始めたとしても、そこを脱出し変身し日本人化することは恐らくあり得ないだろう。表面的には有り得るとしても。
明治以後の日本は西洋化へ向かって邁進して来た、実際に西洋人になれたかと言えばノーだった。英語が喋れてもそれで西洋人化したとは言えない。地球規模の欧米化、即ち民主主義や資本主義経済で覆われていようと人間まで欧米化したかと問えばノンだろう。アメリカは実験的な国、移民によって成り立っているにしても先駆者たちが西洋人だったせいで根はヨーロッパ人を土台とし成り立って独自にアメリカ人として成長・変化してきた。第二次世界大戦までの数百年を支配した植民地でも人間までは改造できなかったと言っていい。欧米は現地人をハナから同等の人間とは思っていず、教育を施さなかったから当然欧米人化など無理だったのだが。第二次世界大戦後のアメリカ軍占領下、t英語の公用化までは実現しなかった、反発を考慮し自虐史観など裏工作があちこちで見られたが……。中国の自国内の少数民族に対する権力による介入・同化政策もかえって反発を強くするだけだった。香港においても。今もって継続中だが。
イギリスのBBC放送など海外で注目されている日本人の良いところはそれぞれの国の道徳によって実現、定着も可能だろう。他国侵略以上の困難が伴うのは言うまでもないか……。
自由・平等・博愛。個人主義のぶつかり合いで勝ち組のみが十分な自由を謳歌し、従って平等も崩れ、博愛では生きられぬ世の中。共和国のシステムは初めから原理的に矛盾していたのだろうか。世界の進歩・成長物語がその矛盾を覆い隠し儚い夢を与えてきた。発展しない途上国の惨状に救いはあるのだろうか。
バブルが弾け、三十年以上も経済が停滞し、人口も減りはじめ急速な高齢化、経済指標も後退している日本社会が荒れているかといえばそうでも無く社会秩序がどの国よりも安定しているのはどういうことなのか。社会の成熟だけでは考えられないこの歴史的アンバランス。近代史を支配していた経済というもの自体が相対化され始めたのか、歴史は繰り返されず、つまり「人間」の歴史は自律し完成に向かったのか、一国で。「ニュートラル」や「多様体」といった特徴を持つ故なのか、奇跡なのか、興味は尽きない。
2024/02/03





ニュートラル53
火付け盗賊改長官・長谷川平蔵宣以(のぶため)、こと鬼平(鬼の平蔵)が市中探索の為に素浪人の姿で街に繰り出す。心中、楽しいんだ、と呟く(漫画の一場面)。日本語は一人称がことの他多いし、号などで別名を複数持っている文豪もまた多くいた。証明書のIDはidentity documentの略で、自己同一性、唯一無二の存在証明、西洋からの流れと言って良いだろう。変名、偽名などで逃亡していた爆弾事件の犯人が最近もニュースを賑わした。コスプレやハロウィン、変装や別人に化けたり、「号」を名乗り他の人格に入れ変わることを日本人は良しとし肯定して来た(のに囮捜査はしない、すればフィリピンにいたルフィは容易くお縄にできたのかもしれない)。日本人は鬼平同様変身を楽しんでいるのだろう。最近でもハンドルネームやアバターで自己を分身化し使い分けて楽しんでいる。ペンネームでのラジオや雑誌への投稿もまた賑わいを見せていた。現在ラジオは「ラジオネーム」に統一されている。
乗り物酔いのために運転免許はとうの昔に返上してしまい、しかもマイナンバーカードを作っていないので何かと求められる自己証明には苦労が絶えない。アイデンティティは一つであらねばならない、という権力による圧力なのだろうが、健康保険証からのキックバック・マイナカード達成率は未だに7割程度らしい。健康保険証は高齢者がより使うものなのでマイナカードで合理化・コストダウンせよというその分野の識者もいた。自己縮小への圧力に自由への圧迫を感じないこともない。権力もデリカシーを無視したらえらい目に遭うだろうに。私はIZA(SNS)の時代に毎月ハンドルネームとアイコン画像を変えていたので、70以上の別名と顔を持っていた事になる。大袈裟に言えば毎月生まれ変わっていたのである。すべての名前が関連していたので別人と言っても微妙な差異に過ぎなく、常連の訪問者が迷うことはなかった筈。名前で楽しんでもらう、そんな遊びも変名には付き纏っていた。
三十路の頃には四等官に凝っていた。朝廷が定める長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主管(さかん)。大岡越前守(えちぜんのかみ)、吉良上野介(こうずけのすけ)、遠山左衛門尉(さえもんのじょう)は誰もが知っている四等官名の代表であろうか。一般名詞が固有名詞化する、という不可解が罷り通っていた。しかも格好良く。筑前守羽柴秀吉も然り。多様な名称を使い分ける。無意識に「多様体」への道が築かれていたのであろう。正一位、従五位、なども有り、肩書きの国、肩書きが財産の国、日本に自己同一性の強制は相応しくないのかも知れない。
ピカソのフルネームには聖人・親族の名が凡そ11人分、列挙され長いのであるが寿限無には敵わないであろう。要素の列挙はこんなところにも存在している。昨年のことだけど、落語を舞台化し、登場人物一人一人に役者を割り当てるというニュースを聞いた。邪道というよりも如何に落語家が超人かという証明になるだろう。「多様体」の証明にもなる。落語家だけで無く日本人が超人なのだが、超人的な行いを普通の行いにしているのもまた日本人であろう。こういう観点で日本人を見ていると日本人は未来人かも知れないと思えてくるのだ。
2024/02/04





ニュートラル54

伊勢雅臣さんのメールマガジン2024/02/04は以下の内容だった。
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■■ Japan On the Globe(1355)■■ 国際派日本人養成講座 ■■

地球史探訪: 夷(縄文人)が作った中国文明

 日本列島の縄文人たちが大陸に渡って夷となり、長江文明や黄河文明を築いたという革命的学説の登場。
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縄文文化(文明)の見直しはここまで進んでいる。この学説が世界で認められようと中国は従わないだろうことだけは確かだろう。島国根性とは大陸のことをアジアでは言うのかも知れない。倒錯は色々な場面に現れる。
古代の話題は必然的に未来への展望喚起の起爆剤になろうか。文明や進歩やその行く末を考えてみるに、近代をリードして来た欧米人はそれなりに近代化に見合っていたのも歴史が証明しているし真実だろうが、未来永劫に続いて行くとは誰も言えないし、未来は混沌の代表的事例であろうから恐らく無いのだろう。過渡期、と言われるのは現在の代名詞のようで、時代は常に過渡期なのだ。従って日本人が市民として最適化されているとも日本人である視点からは断言出来ない。より良いと相対的に判断はつくだろうが、絶対的には分からないが本音。良民であっても滅ぼされては意味のないお人よしで終わってしまうからだが、世界情勢を見抜き手探りで未知に挑む気概は必要だろう。ニュートラル、中立の立場で展望出来ること、自国や自国民が対象でそれが出来ないのなら知性も大したことがないのだと思う。岡目八目で終わってしまったら知力は勿体無い。
降り頻る雪を見ていると、かつて雪に内包したエネルギーを最早持ち得ない静かさがいにしへの大事件を懐かしがる。討ち入り、桜田門外ノ変、226事件。衰退感を際立たせると言い換えても良い。
世界の矛盾・紛争の現れを作ったのが欧米なら、欧米の考え方や振る舞いは今世紀の世界にとっては既に癌であるのかも知れない。欧米化・近代化の功績は眼を見張るものだったが、その役割はいつまで続くのかの判断は難しい問題だろう。日本は今のところアメリカの属国を表面上装っている。現政権は度を超えているが、どの時代どの世界でも面従腹背は程度の差こそあれあるものだし、日本文化は独自路線を世界に広めリードしているジャンルもある。ただ肝腎要のITではアメリカ企業ばかりが目立っている。その分野の日本企業の後退は世界が知るところとなっていて、観光立国は先端企業の衰退の証し、貧しい国の象徴と一部海外からは見られている。空港、都市、地方のインフラがその考えを否定するのであるが、GAFAMとは競合しない、世界をリード出来る日本の社会システム(鉄道、水道、交番などの運営や人的教育)が輸出産業として確立される可能性はあるだろう。GAFAMの隆盛は市場開発と深く結びついて派手に展開しているが、欲望が顕在化し過ぎて業績と反比例、ブランド力は暫時下がってゆくのでないかと思っている。新顔の生成AIのGPUで独走するnVIDIAはトップ企業に加わるであろう。日本は地味で目立たないが重要そのものであるインフラに強く有りたい。ニッチは隙間(産業)だがおこぼれでは無い。
日本の研究分野でのシステム。理科系の不備はアメリカ国籍の日本人ノーベル賞受賞者が多数いることで明らかだが、文化系では偏差値の高い、有名・人気大学はほぼサヨクやリベラルや反体制の学者で占められている。一般の学者に対する尊敬や信用は地盤沈下を続け、ほぼ崩壊していると思って間違いではない。有名大学出身者で固まっているTV局(や出版社)の知識人・文化人の人選は眼を覆いたくなる惨状だし、画質のクオリティだけ上がりコンテンツはスカスカの、まともな人はTVなど見なくなっている。大学の教育システムの杜撰さに高校生は無関心、偏差値と格好良さで選ばれる大学受験。キャンパスでの偏向講義と遊ぶ学生はよく釣り合っている。そんな大学への準備期間でもある日本の窮屈な高等学校教育が、アメリカ高校生から憧れの場所として紹介されているのは疑問?が残るが、詰襟、セーラー服からブレザーへ、詰襟でそのまま海外へ渡航すると軍人に間違われるという笑い話もある。
notePC や(スマホを含む)tabletPC持ち込みの受験を夢想してどんな問題が出されるのだろうかと思いを馳せる。バカロレアを手本に論文形式になるのだろうか、既に文章も生成AIの登場で当てにならないところまで進化しているのだとしたら、このテーマは人間の核とは何かに繋がっている。外化されたもの、外化出来るものを除外していったら人間の固有のものとして何が残るのか、である。
犬の気持ちというセンサーが話題になったことがあったが(Sonyの視覚分野でのセンサー技術は世界をリードしている)、人間の心持ちを探れるものが将来発明されるかも知れない。今のところはSFなれども。
2024/02/06





ニュートラル55
ニックネームで呼ばれ愛されることは選手冥利に尽きるらしい。選手だけで無く他の有名人、果ては一般人であっても。
トルネード・野茂英雄、ゴジラ・松井、SHO-TIME or ユニコーン・大谷翔平。ミスター・長嶋茂雄。ベーブ・ルース(バンビーノ)。鉄人カル・リプケン。など。実績を残してもボンズやジーターは一部ではあったかも知れないが聞こえてこなかった。メジャー・リーグではニックネームは特別なものなのだろう。日本の落合博満でも「拝み打法」以外はない。王貞治も「一本足打法」。ダルビッシュ有も特にない。
日本国・内閣総理大臣に付けるニックネームもあるのだが、尊称ではなく揶揄するのが目的のようだ。チンパン・福田康夫。ペテン師・菅直人。現政権の岸田総理はアンサイクロペディアによればーー変態糞内閣総理大臣閣下。変態糞首相。ふみきゅん。キッシー。検討のきっしー。増税メガネ。検討史。ーーが通り名で登録されている。この内歴史に名を残すのは果たしてどれになるのか誰も分からない。今は候補に過ぎない。全部消え去るのかも知れないし、チンパンは特別な名誉と心得よう。チンパン、勿論チンパンジーのことだ。
20世紀の芸能人は芸名が本流だったけど(松田聖子=蒲池法子)、秋元康の関わったおニャン子クラブ辺りから本名が、特にアイドルの主流になった。芸名は整い過ぎている。本名は素をより良く表している。素はニュートラルには必須アイテムと言えるのかも知れない。アイドルには可愛いとニュートラルが必要条件だと思うのだが……。人気が実力を上まわるという詐欺に近い内実。これも特徴的な世界だ。詐欺ではない事はファンやオタクが芸能の能力を最重要案件で求めていないことからも解る。ではニュートラルが最大の売りなのかといえば、案外そうかも知れない。
「ヒロシのぼっちキャンプ」で視聴統計を行ったら、主に50代の中年のオッサンが眠る前に観ているという衝撃的な結果が出たのだった。ヒロシ(52歳)はガックリして、その回はオッサンを自虐ネタにしていた。男50代はアイドルのオタク・ファンともシンクロしていて面白い結果だった。TV局は視聴者ターゲットを年齢層でF1(20〜34)、F2(35〜49)、F3(50〜)と女性を分けているが、M3(50〜)男性が隠れた主流なのではないか。ぼっちキャンプはたいした目的もなく時間を潰すのがコンテンツ。モラトリアム臭がプンプンしているのだ。出演者・視聴者互いに中年のニュートラルを確認し安心して眠るという訳だ。モラトリアム・ニュートラルは十代後半でより発揮される。リアリティーが優っている。そういうわけでアイドルも二十代に入ると気が抜けてくるのは致し方無い。モラトリアムは抜け出そうと自覚し奮闘することで際立ち、本質に近づくのだ。ぼっちキャンプはモラトリアムをそのまま享受、楽しんでしまって抜けようという意欲は微塵もない。諦めのニュートラルと言えようか。それもまた正解なのだが、そういう違って現れるのもニュートラルが「多様体」だからだ。
アイドルにもニックネームは存在し、半ば強制的に付けられる。と言っても拒否権があり本人が納得しないと成立しない。AKB48の圧倒的初期センター前田敦子は「あっちゃん」と呼ばれた。本名から遠い変名は殆どない。本名を知っていれば分かるものが殆どだ。愛称と思って良い。東京者の伝統、〜ちゃん、呼びが由来だろう。最近は「ゆいぽん」(元櫻坂46小林由依)とかアニメ的な名付けも頻繁に見られる。「しょげこ」(日向坂46正源司陽子)とか凝ったニックネームもある。林瑠奈のキャッチフレーズは「負けるな!しょげるな!林瑠奈!今日も一日頑張るなぁ!」ルナピというニックネームより広がっているものもある(注: 林の方が正源司よりキャリアは長い)。
松田聖子の時代は覚えやすく格好の良い芸名と二次的なキャッチフレーズで浸透し売っていた。キャッチフレーズは井森美幸の「未だに誰のものでもありません」が有名。正にニュートラルを標榜している。昨今のアイドルは本名(といってもキラキラネームや初めから芸能人風の名前も多い)故により親しみ深い、友だちみたいなニックネームが主流で使われる。例えば池田瑛紗(てれさ、乃木坂46)は同期最年少、名付けが得意の小川彩(あや)に要請して付けられたネックネーム「テレサパンダ」だった。レッサーパンダからとった由来だが、長いので「テレパン」となり、仕舞いには「パン」になってしまった。短い方が距離も接近し親しみやすいのだ。オタクは(書く場所では)テレパン、お笑い芸人にはパンちゃんと呼ばれている。アイドルは芸能の才能を楽しむよりニュートラルやモラトリアムという共通基盤での距離の近さを優先するのだろう。ドゥルーズ=ガタリには「群れ」という多様体が記されている。オオカミやネズミなのだが、それらは常に群れで行動する(ネズミ集団化のキッカケは異常事態なのだ)、がアイドルオタクの群れは常時ではない。瞬間で消え去るものという違いがある。消え去っては現れ、、、直ぐに崩れ、というライブ会場を主な場として展開される。瞬時の群れ、連帯の儚さは哀れに通じ、淡雪にも似た情緒をも作り出している。宴の後、ひとつの日本の風景なのかも知れない。
2024/02/07





ニュートラル56
「天のつぶ」という美味しいブランド米は福島産。何年か休耕田だったので滋養が半端ではなく味が濃く他の銘柄を遥かに凌いでいる。寿司米は寿司ネタとのコラボレーションで判断されるべきだろう。天のつぶは米が美味しい。新しい銘柄として評判の「だて正夢」はそれだけでは物足りない、無味に近い。それ故にどんなオカズとも合うのだろう。ニュートラルに相応しいのはこちらだろう。が「多様体」としてのニュートラルは個性と矛盾しない。個性と無個性を敵対させず両方とも飲み込んでいる。攻撃的ではないがニュートラルは無敵なのではないか、とふと思う。
逆カルチャーショックとは日本で滞在(移住や観光)した外国人が祖国に帰って感じる落胆のことだが、思うに欧米はなんといい加減な人間ばかりが多くなってしまったのだろうか(自分が知らないだけで前からそうだった可能性もあるが)、既に目標がない国民なのか、近代化は終わってしまったと感じるくらい向上心がなく、唯一個人の楽しみに満ち溢れることが目標のような。バブルが弾けた以後、国家の衰退感は日本の方が強いのであろうが……。国家の隆盛と国民の品性はズレて当然であろうとは思う。良識(哲学)は机上の空論であって、行動までを指しているのではない、かのように。
日本の保守は教育機関では教えられていないから必然独学にならざるを得ない。ので相当な努力と忍耐と時間と労力と才能と環境を要する。学者についていえば若造では無理だろう。若造が教職を得る時分は偏向に染まったままだから必携偏向教員が再生産される。晩年に覚醒はあり得るけど転向してまで貫く情熱が残っているのかどうか。反体制学者で肩書きが付いて仕舞えばもう学者の本分は諦めたように見えるが本人はまだ無遊状態(モラトリアム)で分かっていなかったか、憲法学者で天皇制不要論者だった横田喜三郎は教員を終えて最高裁判所判事になり、自著の天皇制不要論の古書を(恥と思い)買い占めに走ったのは転向の印か、恥の上塗りだったか。『天皇制』は没後に運良く?復刻されたが、今は絶版。電子版はない。『世界と共に歩む』は著作名であり、色紙に書かれた文でもある。額に入れられたこの色紙が我が家の床間に長らく飾られていたのは事実。父のお得意様だった歯科医に横田喜三郎が通っていたからだが、転向したようなので気もいくらか楽だが、世間では天皇制反対の雄として認識されているのだと思う。晩年では転向してもしなくても評価はさほど変わりはしないらしい。おまけに両陣営からは総スカン、孤立の覚悟もいる。そして愛想の良い歯医者を見つけておくこと。比較的空いていて遊びに行けること。
天のつぶは自身で味があるのでご飯のお供も単純な塩、味噌でも美味しそうだ。時代劇の料理に最適化されていないこともない。
昨年の12月9日に放映された再放送 池波正太郎時代劇スペシャル「雨の首ふり坂」(2018/7/18 時代劇専門チャンネルで初放映)録画しておいたものを今頃になって観た。キャストの失敗で後半は見ていられないほど酷かった。25年前の事件当時のキャストと、25年後の2人の該当者が雰囲気も顔も背丈も似ていないのである。2人主人公が入れ替わったかのようなのだ。中村梅雀(原七)と大杉漣(半蔵)。馬場徹(原七)と金井勇太(半蔵)。馬場徹(182cm)は長身で細面。金井勇太(173cm)は低く丸顔。どう考えても大杉漣(178cm)が原七で、梅雀(168cm)は半蔵だろう。6年前(2018/2/21)の今頃急逝した大杉漣。初放映は没後だったがその影響ではないらしい。源七の息子も他人と入れ替っており、入れ替わり、血筋という誤解がこの時代劇のテーマと云う可能性も無きにしもあらず。だがしっくり来ない。レビューを読んでいると25年で14cm縮みずんぐりむっくりになってしまう違和感は誰もが持っているようで、ただうどん屋は圧倒的に梅雀でないと様にならない。これが問題提起作というものかも知れないけど。
ミスキャストは原作との違いでは何回もあったものの、こういう25年後の姿では初めてで、ストーリーに集中できなかった。勿体無いという他はない。
2024/02/08





ニュートラル57
多少のまとめも必要だろう。コロナ後遺症の喘息と肺炎に悩まされながら、我が梶井基次郎の胆力の強さに頭の下がる日々の思いでいる。冬の蝿。
まとめというよりも重要な3つのファクターを上げてみよう。
最初のアイデアだったギアチェンジのニュートラルだ。日本人「多様体」とも関わる優先事項。画面には日本人・大谷翔平がニュートラルを実に巧く使って二刀流を使いこなしている姿は惚れ惚れし日本人ならではあった。二刀流は日本人の為せる技。才能よりも根本的だろう。エンジェルスの大谷翔平がニュートラルを作るのに4年かかっかたので本来はアメリカ選手の方が有利だ。ドジャース移籍は既にMVP2度と鳴り物入れなので直ぐに可能性だろう。子供を手なづけるのも上手い。
「誰でもない自分」を独自に作り出すニュートラル。オレオレ詐欺に引っ掛かりやすいという負の側面も強い。評価されにくいが外国人観光客にはすこぶる評判がいい。他者に親身に寄り添い、最後までの道案内はそれだ。しかも「誰でもない」ので御礼を求めず簡略でいい。
次にニュートラルの全面に現れるモラトリアム。アイドルはそれを売りにエンターテイメントにしている。アイドルの原則存在しない欧米ではニュートラルもモラトリアムも負の遺産。消し去るべきもの。自己同一性の文化圏とはそういうものなのだろう。日本人女子アイドルの懸念は年齢の高齢化。二十歳過ぎてのモラトリアムに信憑性は無理があろう。居据わっている高齢者をいかに巧みに追い出すか工夫が居る(二十歳未満7/35人)。さもないと大人アイドル風グループに変化してしまうだろう。AKB48などこれで縮小していった。乃木坂46は正にその渦中にいる。大人の方が管理しやすいし実際のモラトリアムは扱いが未知数で困難
。乃木坂46も楽な道で墓穴を掘るか、今の栄光はただライバルがいかいことに尽きる。
そしてニュートラルも「多様体」に常駐する1要素。1要素であっても日本人を決める決定的1要素であることに違いはない。
2024/02/27






ニュートラル58
西ヨーロッパの歴史は恐らくニュートラルをいかに消してしまえるかにかかっていた、生き残るために、民族が、自分が。
海という要塞に囲まれた島国日本には無い発想だ。
ニュートラル、モラトリアムの台頭に隙を与えない為に生れ付きの良識や理性の定義に奔走した哲学者たち。
ウィーンフィルの「ラデツキー行進曲」をレコチョクで購入した209円。小澤征爾の雄姿であるが、YouTubeで觀る西ヨーロッパの社交界・音楽界の完成度は殊の外高い。
文化、音楽、娯楽においてもウムを言わせぬ全く隙のない完成品。ヨハンシュトラウス1世の神憑り的才能。その只中に日本人小澤征爾が音楽監督になっても微塵も揺らがない強さも持っている。岩盤のように文化が根付いている。日本も雅楽という素晴らしい独自の音楽を持っているが国家的プロジェクトとして江戸時代末1842年にウィーンフィルの規模を維持など考えられなかったろう。ただ日本は対照的に歌舞伎などアンダーグラウンド、民間(規制のないニュートラル)の文化は強い。
自分は日本人であるが、西ヨーロッパ文化を拒否したり、軽んずることはない。尊敬の念を持って接しているつもりだ。それぞれの文化に敬意をはらっているつもり。両方得られるなんて幸運に尽きる。日本人、欧米人についても然り。欧米人特有の厳しい視線、顔、表情。日本人のおもてなしの愛嬌。それぞれの良さを合体出来るなら地上最強の人間が完成しようか。そんな想像も楽しいではないか。
踊りでもダンスでもない「舞踏」という日本の独自のスタイル。土方巽は普段使わない身体の開発が目的だという。いきなり舞台に上がって足を後頭部にもっていったり、常識人の度肝を抜く。土方巽は「暗黒舞踏」と呼ばれ悪役でも活躍する麿赤兒もメンバーに入っていた。澁澤龍彦、埴谷雄高、三島由紀夫などを魅了したが、1966年に解散。1960年代を翔け抜けた形だが解散後も活動は続いた。こういう如何わしい活動の日本人は強い。渋い味のある俳優としても活動している田中泯は自ら「ダンサー」を名乗り、舞踏ではないと言っているが、師は土方巽である。
ヨーロッパの王道とは軌を一にする。王立が残っているあたりに国家プロジェクトには伝統が詰まっている。ビートルズ、ローリング・ストーンズなどのカウンターカルチャーも見事なのだが、女王から勲章を貰ったり王道とアングラ発祥メジャーとのコンビネーションのバランスはいい。
「レイラ 〜 ガッツ 4万人」(Layla (Layla)you❜ve got me on my knees)と聴こえる「Layla」はエリック・クラプトンの代表作だが2度目の売り込みで漸く陽の目を見た。クラプトンの洗練された音は(真似は出来るだろうが)誰にも出せない至高の宝だ。彼の存在自体が既に伝説(神様)の次元に達している。彼にリアルタイムで出逢えことは幸運以外の何物でもないだろう。隙の無い演奏はニュートラルを与えない。後半の緩さも前半の激しさとバランスを取る為でニュートラルとは違うだろう。素晴しい。
2024/03/04





 ニュートラル59
 ニュートラルの隙の極端にあり得なかった第二次世界大戦が終わり開放感は確かにニュートラルに繋がっていた。日本の敗戦は放心状態というニュートラルだった。戦勝国はより充実した開放感だったろう。
 1950年代の音楽の半分がおよそジャズだったのは偶然ではない。アドリブというモラトリアムが自由を謳歌したのだ。即興音楽は緊張も伴うがなんと言っても自由を象徴する。人間は瞬間的に自由であるか、ただの(スコア・音譜の)再現に終始しているのか、である。
 アドリブの本や演奏を読んだり聴いたりすると意外に制約や規則もある事が分かる。全くの自由ではないが、聴き手がどう思うかの方がポイントだろう。
 鬼籍簿を開けば分かることだが事の他消耗が激しく(特に吹く楽器)ジャズ・ミュージシャンは短命に終わってしまう事が義務付けられているかのようだった。エリック・ドルフィー(36 彼のバス・クラリネットは出色)。ジョン・コルトレーン(40 ジャズの紛れも無いトップランナー)。グローバー・ワシントン・ジュニア(56 スムースジャズの父)。エリック・ゲイル(55 ギターの神様)。ロックは何人かが極端に短命(ブライアン・ジョーンズ 27 ローリング・ストーンズ)であるが、ジャズは全体が短命、充実した年齢でこの世から消えてしまうのは哀しい出来事だった。演奏自体は50、60年代のものが今でも名盤としてバイブルの如く聴かれている。ジャスはあの時代で完結し、最近聴いているのはスムース・ジャズというジャンルだ。ジャズの巨匠が居なくなった時代には聴きやすくて良い。アドリブがモラトリアムというより、全体の曲調がニュートラルなのだ。平滑空間と言っても良い。つまり軽いのである。軽快、スムースとはそういうものなのだろう。滑って行く感じが時代にマッチしている。永遠の横滑り。横断的非接触。また行く宛のない滑り台(滑降)もいいのだ。我々は何処まで行けば良いのか。世界に果ては有るのか無いのか……。
 2024/03/07
 




 ニュートラル60
「救出 上下」(スティーブン・コンコリー 扶桑社BOOKSミステリー Kindle 2023/12/2)を読んでいた(ミステリー・サスペンス・ハードボイルド)。元海兵隊員の作者のリアリティーは元軍人だから出色という訳ではなく、ハリウッドのアクションと遜色ないという意味で有りそうな展開、スピードを持っている。手に汗握るということではコーヒーブレイクでさえニュートラルを楽しむということは出来無い状況設定が逆にエンターテイメントになっているのだ。敵か味方、寝返り、裏切り、それも同じ組織内では既に20世紀末のアクションドラマの定番だったろう、それは今も続いている。緊張の連続がアクションの本質なのだから。恋愛映画でさえと言っても良いくらいだ。ジェットコースターのような展開とスピード感。息つく暇もなく入れ替わる。人間の特に身体能力というものが重視されている。動け、立ち止まってはならない、危ない。訓練によって人間は最高の動物になれるのだ。
 エンターテイメントは定番で有りながら定番にとどまっていては飽きられる。常に差異を求められ要求される。小手先の微差では読者は飽きてしまう。飽きられた、これ程の屈辱は無いだろう。
 ただこの小説でも気になったことは、女性の登場人物が強すぎること。重量級金メダリストが(お笑いの)オテンキのり(千葉県の高校チャンピオン)に負けてしまうくらいだから。この小説では女性はアクションで参加というよりも知能で敵を欺く役割に徹していたのは却ってリアリティが出てよかった。海兵隊イコール勇敢、命知らずでは無いが志願兵故に当然士気は高い。その延長で書かれているというノンフィクションの要素の入り混じっているところにも小説に夢(差異)を与えている。
 2024/03/10




   Last Update 3/13/2024 new!!

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