多様体と多様性の違い(原語は同じ multiplicité ミユルテイプリシテ)
ことの始まりは、主著三冊を大雑把に分けてみると、『差異と反復』は「多様体」の総論。『千のプラトー』は具体的な「多様体」の各論になるだろう。しかし、ハードカバーの『アンチ・オイディプス』には「多様体」がひとつも出てこない不思議さだった。日本での翻訳、発行の順番が『アンチ・オイディプス』が先に出版され『差異と反復』が遅れてしまったという事情もある。
多様体 multiplicité ミユルテイプリシテ(フランス語)『ドゥルーズ キーワード89』 芳川 泰久 (著), 堀 千晶 (著) せりか書房 (2008/07)
多様体 multiplicity マルチプリシティー(英語)
『差異と反復』では「多様性〔多様体〕」と読者が読みを選べる箇所が四度も出てくる。どちらにも訳せるということもあるが、多様体が難解すぎて理解できていなかった、という事情もあろうか。コンセンサス不足。
第一章 欲望する諸機械 THE DESIRING-MACHINES CHAPITRE 1 LES MACHINES DESIRANTES
第六節 全体と諸部分 6 The Whole and Its Parts 6. Le tout et les parties
多様性の規定 The status of multiplicities Statut des multiplicités.
「欲望する生産は純粋な多様性なのである。つまり、統一体に還元されえないものを端的に肯定するものなのである。」
(P57『アンチ・オイディプス』市倉宏祐訳 河出書房新社)
「欲望的生産は純粋な多様性であり、つまり統一体に還元されえないものを端的に肯定する。」
(ジル・ドゥルーズ; フェリックス・ガタリ. アンチ・オイディプス 上 資本主義と分裂症 (河出文庫 宇野邦一 訳) (Kindle の位置No.1059). . Kindle 版. )
desiring-production is pure multiplicity, that is to say, an affirmation that is irreducible to any sort of unity.(kindle 15% No.1162/8252 Anti-Oedipus)
la production desirante est multiplicité pure, c'est-a-dire affirmation irreductible a l'unite. (p50 L'ANTI-ŒDIPE)
multiplicité(multiplicity)この日本語訳「多様性」を「多様体」と読むならば、例の「(<差異>・距離・隔たりの)横断的結合」「登録の離接(的綜合)」「消費の連接(的綜合)」 (「横断的な接続、包含的な離接、多義的な連接」『アンチ・オイディプス』P57市倉宏祐訳)は欲望する生産の「多様体」に含まれる、 「多様体」(純粋なプロトタイプ=原型)の特徴ということになる。
翻訳語の合意を超えてドゥルーズ=ガタリ理解の大きな事件となろうか。
[参考文献]
『差異と反復』(ジル・ドゥルーズ 1968年、日本語訳 1992年11月25日 初版発行 財津理訳 河出書房新社)
『アンチ・オイディプス』(G.ドゥルーズ/F.ガタリ 1972年 日本語訳 1986年5月10日 初版発行 訳者 市倉宏祐 河出書房新社)
『千のプラトー』(G.ドゥルーズ/F.ガタリ1980年 1994年9月30日 初版発行 訳 者 宇野邦一他 河出書房新社)
Kindle 日本語
『差異と反復』(書籍の若干の修正がある。索引の欠如は愚策という他ない)
『アンチ・オイディプス』(文庫本の電子化、翻訳者は別 宇野邦一 (翻訳) )
『千のプラトー』(書籍)
Kindle (English Edition)英語版
Anti-Oedipus
英語版 ペーパーバック
Difference and Repetition
A Thousand Plateaus
フランス語版 ペーパーバック
L'ANTI-ŒDIPE
11/14/2019
多様体 multiplicité ミユルテイプリシテ(フランス語)『ドゥルーズ キーワード89』 芳川 泰久 (著), 堀 千晶 (著) せりか書房 (2008/07)
多様体 multiplicity マルチプリシティー(英語)
『差異と反復』では「多様性〔多様体〕」と読者が読みを選べる箇所が四度も出てくる。どちらにも訳せるということもあるが、多様体が難解すぎて理解できていなかった、という事情もあろうか。コンセンサス不足。
第一章 欲望する諸機械 THE DESIRING-MACHINES CHAPITRE 1 LES MACHINES DESIRANTES
第六節 全体と諸部分 6 The Whole and Its Parts 6. Le tout et les parties
多様性の規定 The status of multiplicities Statut des multiplicités.
「欲望する生産は純粋な多様性なのである。つまり、統一体に還元されえないものを端的に肯定するものなのである。」
(P57『アンチ・オイディプス』市倉宏祐訳 河出書房新社)
「欲望的生産は純粋な多様性であり、つまり統一体に還元されえないものを端的に肯定する。」
(ジル・ドゥルーズ; フェリックス・ガタリ. アンチ・オイディプス 上 資本主義と分裂症 (河出文庫 宇野邦一 訳) (Kindle の位置No.1059). . Kindle 版. )
desiring-production is pure multiplicity, that is to say, an affirmation that is irreducible to any sort of unity.(kindle 15% No.1162/8252 Anti-Oedipus)
la production desirante est multiplicité pure, c'est-a-dire affirmation irreductible a l'unite. (p50 L'ANTI-ŒDIPE)
multiplicité(multiplicity)この日本語訳「多様性」を「多様体」と読むならば、例の「(<差異>・距離・隔たりの)横断的結合」「登録の離接(的綜合)」「消費の連接(的綜合)」 (「横断的な接続、包含的な離接、多義的な連接」『アンチ・オイディプス』P57市倉宏祐訳)は欲望する生産の「多様体」に含まれる、 「多様体」(純粋なプロトタイプ=原型)の特徴ということになる。
翻訳語の合意を超えてドゥルーズ=ガタリ理解の大きな事件となろうか。
[参考文献]
『差異と反復』(ジル・ドゥルーズ 1968年、日本語訳 1992年11月25日 初版発行 財津理訳 河出書房新社)
『アンチ・オイディプス』(G.ドゥルーズ/F.ガタリ 1972年 日本語訳 1986年5月10日 初版発行 訳者 市倉宏祐 河出書房新社)
『千のプラトー』(G.ドゥルーズ/F.ガタリ1980年 1994年9月30日 初版発行 訳 者 宇野邦一他 河出書房新社)
Kindle 日本語
『差異と反復』(書籍の若干の修正がある。索引の欠如は愚策という他ない)
『アンチ・オイディプス』(文庫本の電子化、翻訳者は別 宇野邦一 (翻訳) )
『千のプラトー』(書籍)
Kindle (English Edition)英語版
Anti-Oedipus
英語版 ペーパーバック
Difference and Repetition
A Thousand Plateaus
フランス語版 ペーパーバック
L'ANTI-ŒDIPE
11/14/2019
多様体の概略とは? その見取り図
雑多な状態とも見える多様性とは違う多様体とは何か?
2年前に哲学を全く知らない人向けに作った多様体の資料画像です。11/14/2019
2年前に哲学を全く知らない人向けに作った多様体の資料画像です。11/14/2019
文脈的に?
見出しの「多様性の規定」も「多様体の規定」だとしてみよう。
「欲望する生産は純粋な多様性なのである。つまり、統一体に還元されえないものを端的に肯定するものなのである。」 (P57『アンチ・オイディプス』市倉宏祐訳 河出書房新社)
この訳文では文自体の解釈が成り立ちにくい。
「多様性」は哲学専門用語ではなく、一般にも使われる言語で、対照的(対義語)になっているのは「一様性」だろう。「統一体」ではない。 「統一体」に対照的に対するのが「多様体」であるとすれば文章としてしっくりする。
「欲望する生産は純粋な多様性なのである」
ここを「多様性を作り出す」とするなら解らないでもないが、次の文と更に文脈が合わなくなる。
「つまり、統一体に還元されえないものを端的に肯定するものなのである。」
「生産」自体が「多様性」とは普通云わないし、「である」と断定もしない(生産物に多様性がある、なら意味は通じるのだが)。
「多様体」として訳すとしてもこの一文だけでの解釈では難解だ。 「多様体」を使って生産が行われるのか、生産によって出来上がったものが「多様体」なのか。 私見では両方だと思っている。
しかも生産は過程・変動(「横断的な接続、包含的な離接、多義的な連接」)を伴うので、「多様体」は変化し、活動する(翻って「多様性」が力を持っていてそれ自体が変化するとは云わない)。
むしろ「生産物」は「残りモノ」で、それを裏打ちしているのが「多様体」ということになる。
「多様体」は理念、イデアなので「生産」の初手から完成(消費)まで、潜在して働いている。
11/23/2019
「欲望する生産は純粋な多様性なのである。つまり、統一体に還元されえないものを端的に肯定するものなのである。」 (P57『アンチ・オイディプス』市倉宏祐訳 河出書房新社)
この訳文では文自体の解釈が成り立ちにくい。
「多様性」は哲学専門用語ではなく、一般にも使われる言語で、対照的(対義語)になっているのは「一様性」だろう。「統一体」ではない。 「統一体」に対照的に対するのが「多様体」であるとすれば文章としてしっくりする。
「欲望する生産は純粋な多様性なのである」
ここを「多様性を作り出す」とするなら解らないでもないが、次の文と更に文脈が合わなくなる。
「つまり、統一体に還元されえないものを端的に肯定するものなのである。」
「生産」自体が「多様性」とは普通云わないし、「である」と断定もしない(生産物に多様性がある、なら意味は通じるのだが)。
「多様体」として訳すとしてもこの一文だけでの解釈では難解だ。 「多様体」を使って生産が行われるのか、生産によって出来上がったものが「多様体」なのか。 私見では両方だと思っている。
しかも生産は過程・変動(「横断的な接続、包含的な離接、多義的な連接」)を伴うので、「多様体」は変化し、活動する(翻って「多様性」が力を持っていてそれ自体が変化するとは云わない)。
むしろ「生産物」は「残りモノ」で、それを裏打ちしているのが「多様体」ということになる。
「多様体」は理念、イデアなので「生産」の初手から完成(消費)まで、潜在して働いている。
11/23/2019
謎の概念。「多様体」。
その外堀を埋めてみよう。
ドゥルーズ=ガタリを直接取り上げていなくとも全体図としてとても役立つ著書を上げてみる。
『ヨーロッパ思想を読み解く 何が近代科学を生んだか』古田博司〈ちくま新書〉、2014年。
『使える哲学』古田博司(ディスカヴァー・トゥエンティワン)2015年。
理念(イデア)のことを著者は「向こう側」とやさしい言葉で解読し、その流れでイデア中心のイギリス哲学の持つ探求心が近代科学を開花・発展させたのだという。「向こう側」は日本で云う、あの世や転生する異世界とは違い、別世界ではなく、見える世界の背後にある、隠されている真理を司るモデル(形成体)のようなものです。
一見、科学は形而上学や観念論を捨て、見ることの可能な事実(実験出来る)から始められるように思えて、逆に「向こう側」の理念の探求(直感・超越)こそが近代科学を発展させてきた、と云う分けです。この辺の指摘は秀逸というか、非凡のなせる技でしょう。
ポストモダンのデリダを「向こう側」を否定した哲学者、失敗例としてあげているのですが、残念なことに、現代哲学のイデア(向こう側哲学の)巨匠、「多様体」のドゥルーズ=ガタリはスルーしてしまっている。
『哲学とは何か』(ドゥルーズ最後の著作、河出文庫2012年)の巻末の広告で『千のプラトー』はこのように紹介されています。
「ドゥルーズ/ガタリの最大の挑戦にして、いまだ読み解かれることのない20世紀最大の思想書、ついに文庫化。リゾーム、抽象機械、アレンジメントなど新たな概念によって宇宙と大地をつらぬきつつ生を解き放つ。」
誇張を含むキャッチコピーだとしても「いまだ読み解かれることのない」は当たっていると思います。
特に「多様体」について(これらリゾーム、抽象機械、アレンジメントをイデア「多様体」の変種・具体例・応用例・周辺概念として考えてもいい、従って「多様体」の「具現化」「多様化」が解からなければ何も把握出来ないと思います)。
私見では、ドゥルーズ=ガタリの真髄を十年で理解できたら天才だろうと思います。五年ならは大天才でしょう。
二十年以上かけ「未だ山麓」(升田幸三)にしか思えない凡人に較べ、ヨーロッパ哲学、ギリシャから始めて十五年、フランス現代哲学はおそらく五年以下のキャリア、数年の探求だろう古田氏は天才だとしても、ドゥルーズ=ガタリを避けたこと、非難は出来ないと思います。
狙っていた、狙ってはいなかったは別として、GAFAの隆盛はこの「多様体」モデルを抜きには考えられない。
(現在は雲散霧消している日本のかつての著名なポストモダン紹介者・論者たちは、ドゥルーズ=ガタリのモデルの構築・試行を非難していたことを思い出します)
現代もイデア「向こう側」の探求が世界の自然科学、人文科学、産業、技術をリードしているだとしたら、古田氏の先見の明は確かだったと云えるのではないか。
12/03/2019
ドゥルーズ=ガタリを直接取り上げていなくとも全体図としてとても役立つ著書を上げてみる。
『ヨーロッパ思想を読み解く 何が近代科学を生んだか』古田博司〈ちくま新書〉、2014年。
『使える哲学』古田博司(ディスカヴァー・トゥエンティワン)2015年。
理念(イデア)のことを著者は「向こう側」とやさしい言葉で解読し、その流れでイデア中心のイギリス哲学の持つ探求心が近代科学を開花・発展させたのだという。「向こう側」は日本で云う、あの世や転生する異世界とは違い、別世界ではなく、見える世界の背後にある、隠されている真理を司るモデル(形成体)のようなものです。
一見、科学は形而上学や観念論を捨て、見ることの可能な事実(実験出来る)から始められるように思えて、逆に「向こう側」の理念の探求(直感・超越)こそが近代科学を発展させてきた、と云う分けです。この辺の指摘は秀逸というか、非凡のなせる技でしょう。
ポストモダンのデリダを「向こう側」を否定した哲学者、失敗例としてあげているのですが、残念なことに、現代哲学のイデア(向こう側哲学の)巨匠、「多様体」のドゥルーズ=ガタリはスルーしてしまっている。
『哲学とは何か』(ドゥルーズ最後の著作、河出文庫2012年)の巻末の広告で『千のプラトー』はこのように紹介されています。
「ドゥルーズ/ガタリの最大の挑戦にして、いまだ読み解かれることのない20世紀最大の思想書、ついに文庫化。リゾーム、抽象機械、アレンジメントなど新たな概念によって宇宙と大地をつらぬきつつ生を解き放つ。」
誇張を含むキャッチコピーだとしても「いまだ読み解かれることのない」は当たっていると思います。
特に「多様体」について(これらリゾーム、抽象機械、アレンジメントをイデア「多様体」の変種・具体例・応用例・周辺概念として考えてもいい、従って「多様体」の「具現化」「多様化」が解からなければ何も把握出来ないと思います)。
私見では、ドゥルーズ=ガタリの真髄を十年で理解できたら天才だろうと思います。五年ならは大天才でしょう。
二十年以上かけ「未だ山麓」(升田幸三)にしか思えない凡人に較べ、ヨーロッパ哲学、ギリシャから始めて十五年、フランス現代哲学はおそらく五年以下のキャリア、数年の探求だろう古田氏は天才だとしても、ドゥルーズ=ガタリを避けたこと、非難は出来ないと思います。
狙っていた、狙ってはいなかったは別として、GAFAの隆盛はこの「多様体」モデルを抜きには考えられない。
(現在は雲散霧消している日本のかつての著名なポストモダン紹介者・論者たちは、ドゥルーズ=ガタリのモデルの構築・試行を非難していたことを思い出します)
現代もイデア「向こう側」の探求が世界の自然科学、人文科学、産業、技術をリードしているだとしたら、古田氏の先見の明は確かだったと云えるのではないか。
12/03/2019
何故「多様体」が中心になっているのか、について。
まず「多様体」や「強度」(も多様体である)が遺伝子情報と細胞の分裂生成、そして人間の個体化(『差異と反復』)の探求から抽出され(人間が個別なのは何故か、多様な人間が生まれ育つのはどうしてなのか、という問いから)、拡張されてきた概念だった。現状で世界を席巻している、PC、タブレット(PC)、スマホ(スマートフォン、ミニPC)。GAFA(ガーファ。Google、Apple、Facebook、Amazon)などが利便性で使われている裏で、根本的な魅力というモノがあり、惹き付けられる要素の宝庫だからで、それは真実や真理に、その絡繰りに、人が近づきたいという、云うに云われぬ願望(欲望)を持っているからだと、考えるからです。
「多様体」や「強度」から成り立っている人間の仕組みと、それらを培養し、巨大化したり外化したり、ITや数多あるネットワークのひとつに過ぎないモノが、実際には、人間の真実を投影したもの、見える形に変容させて、日々観察しているのだと思うからです。
IT製品やネットワークのクライアント、受け手は、受け身なのではなく、積極的に「多様体」と係わり、更新し(Update)、要素を付け加え(n+1)、また欲望する生産として、生産物=多様体を作ることが出来るようにもなっている。もし「多様体」哲学なるものがあるのだとしたら、それは机上で論じたり、分析したり、を取り払い、「多様体」自体を作り出す側に、また更新し、書き換えたりすることに係わっているのだろうと、思っている。学問としての哲学の終焉の彼方に、実践としての哲学が広がっているのだ、というように。
1/30/2020
「多様体」や「強度」から成り立っている人間の仕組みと、それらを培養し、巨大化したり外化したり、ITや数多あるネットワークのひとつに過ぎないモノが、実際には、人間の真実を投影したもの、見える形に変容させて、日々観察しているのだと思うからです。
IT製品やネットワークのクライアント、受け手は、受け身なのではなく、積極的に「多様体」と係わり、更新し(Update)、要素を付け加え(n+1)、また欲望する生産として、生産物=多様体を作ることが出来るようにもなっている。もし「多様体」哲学なるものがあるのだとしたら、それは机上で論じたり、分析したり、を取り払い、「多様体」自体を作り出す側に、また更新し、書き換えたりすることに係わっているのだろうと、思っている。学問としての哲学の終焉の彼方に、実践としての哲学が広がっているのだ、というように。
1/30/2020
「一即多、多即一」
「多様体の規定」を遡ってみよう
本当に実詞的なもの、実体そのもの、それこそが、「多様体」、すなわち、それによって〈一〉におとらず〈多〉も無用になる「多様体」である。可変的な多様体とは、〈どのくらい〉ということ、〈どのように〉ということ、〈それぞれの場合〉ということである。どのような事物をとってみても、それが《理念》を具現しているかぎり、ひとつの多様体である。その場合、〈多〉さえも多様体であり、〈一〉すらも多様体である。〈一〉はひとつの多様体であるということ(それはまた、ベルクソンとフッサールが指摘したことであるが)、そこには、〈多くのー一つの〉ものと〈一つのー多くの〉ものというタイプの形容詞からなる〔二つの〕命題を対等にさせるに十分なものがある。いたるところで、多様体という諸差異が、そして多様体としての差異そのものが、図式的で粗雑な〈対立〉に取ってかわるのだ。〈一〉と〈多〉の御大層な対立のかわりになるものは、多様体という変化性、すなわち差異しかない。「一切は多様体である、〈一〉すらも、〈多〉すらも」という言い方は、おそらくひとつのイロニーであろう。しかし、イロニーというものはそれ自体ひとつの多様体なのである。あるいはむしろ、もろもろの多様体に属する技術である
(P279『差異と反復』財津理訳 1992年 河出書房新社 原典は1968年)
名詞として用いられた多様性という範疇は、《一》とか多とかいった次元のいずれをも超えるものであり、つまりそれが《一》や多を述語とするといった関係が考えられるべくもないものであるが、この多様性の範疇のみが欲望する生産を説明しうるものなのである。欲望する生産は純粋な多様性なのである。つまり、統一体に還元されえないものを端的に肯定するものなのである。
(P57『アンチ・オイディプス』市倉宏祐訳 1986年 河出書房新社 原典は1972年)
もともと「多」と「一」を取り上げていたのは実詞(名詞、動詞を含む)としての「多様体」についてであった。
「一」でも「多」でもなく、「一」で有り「多」でもある(仏教の「一即多、多即一」)をイロニーとして肯定すること。どちらでもない、それらを超越したモノとしての「多様体」。
前後の文脈から云っても「多様性」は「多様体」に改めるべきではないか。
名詞として用いられた多様体という範疇は、《一》とか多とかいった次元のいずれをも超えるものであり、つまりそれが《一》や多を述語とするといった関係が考えられるべくもないものであるが、この多様体の範疇のみが欲望する生産を説明しうるものなのである。欲望する生産は純粋な多様体なのである。つまり、統一体に還元されえないものを端的に肯定するものなのである。
3/02/2020
本当に実詞的なもの、実体そのもの、それこそが、「多様体」、すなわち、それによって〈一〉におとらず〈多〉も無用になる「多様体」である。可変的な多様体とは、〈どのくらい〉ということ、〈どのように〉ということ、〈それぞれの場合〉ということである。どのような事物をとってみても、それが《理念》を具現しているかぎり、ひとつの多様体である。その場合、〈多〉さえも多様体であり、〈一〉すらも多様体である。〈一〉はひとつの多様体であるということ(それはまた、ベルクソンとフッサールが指摘したことであるが)、そこには、〈多くのー一つの〉ものと〈一つのー多くの〉ものというタイプの形容詞からなる〔二つの〕命題を対等にさせるに十分なものがある。いたるところで、多様体という諸差異が、そして多様体としての差異そのものが、図式的で粗雑な〈対立〉に取ってかわるのだ。〈一〉と〈多〉の御大層な対立のかわりになるものは、多様体という変化性、すなわち差異しかない。「一切は多様体である、〈一〉すらも、〈多〉すらも」という言い方は、おそらくひとつのイロニーであろう。しかし、イロニーというものはそれ自体ひとつの多様体なのである。あるいはむしろ、もろもろの多様体に属する技術である
(P279『差異と反復』財津理訳 1992年 河出書房新社 原典は1968年)
名詞として用いられた多様性という範疇は、《一》とか多とかいった次元のいずれをも超えるものであり、つまりそれが《一》や多を述語とするといった関係が考えられるべくもないものであるが、この多様性の範疇のみが欲望する生産を説明しうるものなのである。欲望する生産は純粋な多様性なのである。つまり、統一体に還元されえないものを端的に肯定するものなのである。
(P57『アンチ・オイディプス』市倉宏祐訳 1986年 河出書房新社 原典は1972年)
もともと「多」と「一」を取り上げていたのは実詞(名詞、動詞を含む)としての「多様体」についてであった。
「一」でも「多」でもなく、「一」で有り「多」でもある(仏教の「一即多、多即一」)をイロニーとして肯定すること。どちらでもない、それらを超越したモノとしての「多様体」。
前後の文脈から云っても「多様性」は「多様体」に改めるべきではないか。
名詞として用いられた多様体という範疇は、《一》とか多とかいった次元のいずれをも超えるものであり、つまりそれが《一》や多を述語とするといった関係が考えられるべくもないものであるが、この多様体の範疇のみが欲望する生産を説明しうるものなのである。欲望する生産は純粋な多様体なのである。つまり、統一体に還元されえないものを端的に肯定するものなのである。
3/02/2020