改めての初めに ー反復の萌芽とはー


syokutaku
ー反復の萌芽とはー
語句の解釈を中心に据えることは元々無かった。が、コペルニクス的転換の必要性を割と切実に感じだしていて、ある意味山師的発想で賭けに出てみること、それもまた面白いのではないのかと思いはじめた。生涯に一度、二度?くらい不確実性に突っ込んでみる。収穫の果実を無視し、咲く花を想い描かずに出掛けてみる、行動を優先する。未来の結果も知らぬ、まず始めてみる。考えるのはそれからだ。つまりフィクションから始めるのだ。フィロソフィー・フィクションとでも名付けて。
反復欲望の巨大さから前以て活気づけられた祭典の如く繰り返され、
反復差異を生み出す。と現代哲学は考えている。
結果の不足分や、過剰の高揚感(共に差異)が新たな欲望を生み出す、と考えられて当然だろう。
これではまとも過ぎてコペルニクス的転換に到達しえない。常識でも理解されるレベルだから。ではコペルニクス的転換とはどういう考えなら可能だと言うのだろうか。
ここでは反復差異と同時に欲望をも生み出す、と一歩踏み出てみることにする。
欲望反復に纏わり付いているのでは無く、欲望反復から生まれる、ダイレクトに反復欲望を生んでいるのではないかということである。
常識的な欲望人称を伴った欲望だろう。一方反復が生む欲望人称を離れた非人称欲望としてみるのだ。ただここでの欲望は人間についてであるから、非人称欲望であっても、作動させるのは人称である。見分けはつかないが、原理としたら大きく違う。
が出てくる」という言い方は日本独特なものだろう。「」が主語に収まっている。
を出す」なら人称、固有のアイデンティティを持つ主語を付けても文が成り立つ。
「息子も漸くが出て来た」という言い回しは日本では商売の跡を継いだ子供の有り様としてごく自然に理解される。仕事を反復してゆく内に渋々やっていたモノが、意欲的に取り組んで働くようになった様子だ。(続く)

 5/04/2022
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  • 物心つく前から
    「疲れを知らない子供のように」小椋佳作詞・作曲、布施明歌唱の『シクラメンかほり』(1975年リリース。第17回レコード大賞、紅白歌合戦では三度歌われた)の印象的な歌詞の一部だ。
    恐らく正確には疲れ果てるまで反復してしまうのが子供なのだ。熱を出すまで繰り返すことも稀ではない。何故飽きないのか。純粋な反復欲望を生み続ける、手当たり次第、この時点では非人称無差別欲望、と理解した方がいいと思う。仔猫の遊びとて同様に果てしなく反復を繰り返す。動物は成長と共に無益な反復を徐々に減らして行くが、人間は子供(の純粋な反復)を保持して生きられる。そこに本源的な差異が存在する。リニアでアップデートを重ねて子供から大人になってゆくのではない。n+1 中学生、高校生、大学生、社会人を加え、積んでゆく、それが人間の人間たる所以だろう。多様体としての人間。
    純粋な反復は子供の名残であり、未来でもある。反復によって欲望が生まれ続ける。そのジャンルを見付ける、それが天職と云われるものだ。 反復によって欲望が生まれぬものは所謂向いてない、ソリが合わない仕組みとなり、義務化すれば苦痛さえ生まれるだろう。がしかし西洋的な理性の哲学では正しい判断によって遂行されるべき行為は苦痛の対象であっても、むしろそれだからこそ主体性の発揮として賞賛される。
    少年よ大志を抱け」クラーク博士。自己同一性に良く当て嵌まる。けれど、日本人にはどうか。
    経験し反復によって欲望が生まれ、身に相応しいと悟り、初めて大志も描けるというものではないか。実行する以前に次々に生まれるだろう欲望をこの時点で正確に抱けるものではなく、それは欲望というより願望、希望の類だろう。嗜好は必要だが、大志とは一寸違う気がする。
    原因が結果を生む、西洋的なアイデンティティ、行動様式の考えから、反復という結果原因という欲望を生む。この転換が必要なのだ。
    学校は子供を卒業させて大人に導くのではなく、子供の持つ純粋な反復力をいかに残し、活かし、発展させるかにかかっている。
    受験勉強という反復も勿論欲望を生むだろう。反復は学習に付きものであって、奨励されても良い。が、それは頭脳というよりも受験の反復行為がその生徒にシンクロしているに過ぎなく、知性全般が優秀とは意味が違ってくる。受験勉強が生む欲望に合致し、しかも生産的な知性に必要な反復にもシンクロする、二つを兼ね備えている生徒がどれだけ居るかが現状、最高学府上位校の生徒の質を決めるのだろう。
    著名な漫画家の出身大学を眺めていると、地方のそれ程有名でない大学が多く印象的だ。多様化。受験勉強という反復欲望を生み出さなかったからだろうと推測される。が、生産的な反復活動には異常な欲望を再生産出来る体質を持っているに違いないのだ。子供の純粋な反復を保持するのに地方の大学こそ適した環境なのであろうと……さえ思われる。 (続く)

     5/06/2022
    機械的反復ー永久機関、名人芸と習慣
    一時物議を醸した森喜朗元総理の「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国」発言(2000年)。ニュアンスは違うものの当たっていると思っている。神話両義的記号から成り立っている(『アンチ・オイディプス』)という側面から。反復欲望の観点から説明しているとそこから抜け出したくなる。それも両義性である。機械的大量生産の絶え間ない反復や永久機関への驚きと憧れ、最早欲望の入り込む余地すらないと思われるからだろう。職人で言えば名人芸の閾に達して初めて得られる境地。淡々と高度な技を何度でも再現してしまえる、我欲と無縁の行為を繰り広げている様子は見ていて楽しいだろう。室生犀星はよく自宅の庭での植木屋の仕事ぶりを眺め、関心したように短編に登場させていた。日本の飲食店は概ね調理過程も含めての外食。料理もそうだが、全般、高度な技の匠の世界とともに一般人の行いである習慣もまた淡々と行われ、欲望の入り込む余地はほぼ失われている。究極の秀才の定義は勉強、学習が習慣化されていて、努力というものさえ要らない心境にある、と想定される。名人芸習慣は、松尾芭蕉の云う「高悟帰俗」にも通じることなのだろう。この両義性も日本的なのだ。 産経新聞連載のコラム ー一服どうぞー 「メンタル強くするには」 裏千家前家元・千玄室 2022/6/20 10:00(sankei.comの日付)に登場していた仏弟子・周利槃特(しゅり はんどく)は要領の悪い弟子で、何事も続かず還俗しようとした。それではと掃除のみをやらせ、やがて掃除だけで悟りを開いた逸話として残っている。習慣とは実に恐ろしいほどの価値と果実をもたらす反復行為なのだ。掃除の(習慣の)完成とは、掃除が上手くなる(熟練に達するという)差異を求める欲望の消滅を意味するからである。習慣という反復欲望からも自由な境地で行われるからである。掃除の上達は小さな欲望に過ぎぬとも、見逃さぬ自覚に因っては悟りにも通じるのだ。 (続く)

     1/21/2023
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