幼生の主体 sujets larvaires(larval subjects)


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幼生の主体(1)sujets larvaires(larval subjects)
 『差異と反復』(ジル・ドゥルーズ 財津理訳 河出書房新社、1992)原著は ”Différence et répétition” (Gilles Deleuze 1968) (翻訳に24年費やしたことになる)日本語訳の初版を読んでそのまま約10年記憶の底に。ふと思い出したのが「幼生の主体」という概念、細部は違っていたものの、大筋は記憶通りだった。あらゆるストレス、困難な状況に遭遇しても、この「幼生の主体」ならば切り抜けることが出来る、と。例えるならばエアーバックだろう。あるいは学説としてポシャってしまったが「スタップ細胞」と呼ばれていたもの。「幼生」は(自己愛が最高度に許されている)「幼稚」とは違う。自意識が芽生える前の(自他の区別のない無・無我の)状態だ。西洋ではコギト、ナルシシズム的自我に亀裂が入り、崩壊したところに(成体死の直前の)ギリギリの最後に現れる。が、日本人はそうではなく、シートベルトのように常駐しているのではないか。日本の環境、多種多様に多発する自然災害に対処すべく日頃から常備されている(それなくしては生きた心地もしない)「幼生の主体」。その「幼生の主体」を常駐させるしるし(呼び覚ますシグナル)として「妖精の主体」すなわち日本独自のアイドルが存在しているのだと思う。被災地とアイドルの親和性は「幼生の主体」という哲学的概念の裏付けがあるのだ。数多のアイドル論を読んでいても、その特徴や変遷を分析するものばかりで何故存在しているのかの根源的言及は見当たらない。「萌え」とは対象・アイドルに触発されこそすれ、《逆備給》、内なる「幼生の主体」(胚)自体が萌えることなのだろう。

 11/25/2019
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    「異質な諸セリー間に連絡が打ち立てられるや、そこからあらゆる種類の帰結が、システムのなかに生じてくる。何ごとかが縁と縁とのあいだで「過ぎてゆく」。まるで稲妻のように、雷光のように、出来事が炸裂し、現象が閃き出る。時ー空的力動がシステムを満たし、カップリングの状態に置かれた諸セリーの共鳴と、それらセリーをはみだしている強制運動の振幅とを同時に表現するのだ。」(『差異と反復』p186)

    「セリー」は音楽用語ということだが、下位の複数の異質な要素・配列、程度でいいだろう。確かに音楽は音どうしの繋がりがメロディーを決定するような連絡の芸術だ。実はここでは「災害」について書かれていない。創作、創造についての記述であって、受動的自我にとり、それは稲妻や災害に遭遇することにも等しい現象だと指摘している。プラスとマイナスの電気のぶつかり合い(カップリング)による稲妻の閃光。プレートどうしのエネルギーの歪み・ねじれ、巻き込みの解消によって引き起こされる矯正としての巨大地震。その海底を揺らす振幅により爆発的に起こってしまう巨大津波。同様なことが新たなものの創造についても起きているのだと書かれている。当然の受苦として。

     11/25/2019
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    「いくつもの主体が、すなわち幼生の主体と受動的自我が、同時にシステムに住みつく。それら主体が受動的自我であるのは、それらがカップリングと共鳴との観照と渾然一体となっているからであり、それらの主体が幼生の主体〔基体〕であるのは、それらがそうした力動を支えるものあるいはその受動者であるからだ。事実、強制運動に必然的に関与する純然たる時ー空的力動は、或る一定の条件のもとで、耐えられうるもののぎりぎりのところで、ようやく身に引き受けることが可能なのであって、もしもそうした力動がその条件の外に出てしまえば、あらゆる主体の、すなわち完全に構成されて独立性と能動性をそなえたあらゆる主体の死を引き起しかねないのである。」(『差異と反復』p186)

     ここでも西洋人と日本人は違う。創造においてはそれほどのショックもなく行われてしまうのが日本人だ。モノ作りの国の真骨頂だろう。自然災害に耐えてきたDNAは創造に活かせれてきた。欧米では詩人、芸術家は日本以上に尊敬されている。神と人間界の間に居る如く、人間を超えている存在として。それはこのような修羅場をくぐり抜けてきた敬意だろうが、創造に関して日本人はそうでもない。ある意味やすやすと乗り越えてしまうのである。それは同形異義語(同音異義語)においてもそうであって、西洋人にとってはそれは「暗き先触れ」としてコギトに亀裂を走らせるものらしいが、和歌の伝統で鍛えられて、例えばお笑いの、ナイツやロケット団も使用している「掛詞」には慣れきってしまっている。平常で居られるのは、「幼生の主体」の常駐化の賜物であろうと思う。日々の無自覚の訓練に因って常態化してしまっていると考えても良い。

     11/25/2019


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