欲望 désir desire


farsun09
Q
欲望するマラソン大会 とは?
A
   校内マラソン大会は正式な競技ではなく、かと言って、授業でも練習でもない。曖昧な位置付けの競技大会と言えなくもない。だからこそ真剣な走力の発揮を促す体育教師の激に反し、一緒に走ろう、一緒にゴールしようと云う生徒が必ずどの学校においても現れ、大抵その約束は終盤に近付くにつれ反故にされ、非難と共鳴、一悶着を引き起こしたりする。これを含めての年中行事だろう。
 途中から懸命に走り出す生徒は変節したと云えるのだろうか。たった数十分、数時間で人の心は秋の空の如くに移ろってしまうものなのだろうか。  行動、行為の原因を人の内側から、内発に求める西洋的な思考からは非難と責任を問われるだろう。責任を問えない、と思えてくるとしたら、我々が西洋の人間観から隔たりを持っていることを示しているのではないか。
 欲望には人称と非人称があって良いと思っている。非人称、ここではフロイトのいう人の内部にある無意識ではない。この外部を無理やり内部に閉じ込めた精神分析の思考、硬直こそ、失敗だったと思っている。
 非人称の欲望によって、校内マラソン走者は口約束を反故にし加速し出す。
 走る。左右の脚の蹴りと前進への交互の踏み込み。反復が走りの基本だ。反復が距離の差異を生み、前進して行けるのは事実だ。が、反復は欲望をも生み出しているのではないか。意識に載らない、意思と隔たった反復が生み出す非人称の欲望というものも、あるのではないのか。   

 1/30/2021   

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